ソリッドファイター完全版

 わざわざ探してまで読む気はあまりなかったのだが川崎アニメイトにフツーに並んでたので。

 古橋秀之とゆー人は、同時代同世代、まさに時代の同じ空気を吸ってる人、という気配を何を読んでても感じる。だから俺にとっては「ゲーム的リアリズムの人」である。

>人間、自分が好きなものとか尊敬するものは自分の尺度に当てはめたがるもので、今の話もプロレスファンなら「あの人は馬場ぐらい偉い(前田でも可)」と結論づける(P263)

 俺は猪木の生い立ち紹介に未だに呪われてるが(泥棒になるなら世界一の泥棒になれと爺ちゃんに言われ<世界一>になった猪木、という児童雑誌のプロレス記事)、いや脱線だが、ラノベは基本的にはアニメやマンガとのタイアップよりかゲーム産業との絡みでその言葉を与えられてきたものだと思うし、その意味ではラノベは多かれ少なかれゲーム体験を言語化するという読書姿勢を引き受けてるものだ(なのでゲーム内言語であるビジュアルノベルとは、立ち位置として噛み合わない)。だから、どの作家であってもゲーム的リアリズムコンピューターゲーム体験、RPG体験のあの「虚構の」空気を、あの「見えたはずもない」光景を己の立つ現実の原点として語らなければならないという言葉との戦い)を、作家の、おそらくはコンピューターゲームよりは小説の文章に連なるであろう彼らにとっての文脈から引き剥がされ、読者の勝手な都合により背負わされることになる。

 物心ついてからの目新しい衝撃でもなく、当り前のようにあるものでもなく、年に一度の二泊三日の旅行のときだけ遊ばせてもらえたインベーダー、銭湯の着替え所で小遣いもなく二時間でも三時間でも飽きることなくただ眺め続けたラリーXにボスコニアン、通い始めた塾の近くのもんじゃ屋のマリオブラザーズ。遠くて近いもの、チャチで輝いてるもの、金持ちしか遊べない贅沢品なのに生活の場にするりと紛れ込んでいるもの。ある日いきなり下克上で「いじめっこの頂点」から「いじめられっこ」に追い落とされた子の家で遊んだファミコン。「ゲームをタダで遊ばせてくれる場所」だった秋葉原まで1時間歩いて通った毎日。九段の坂は上る坂じゃなく学校からただひたすら下る通り道だった。ゲームを遊ぶ場所は武道館じゃなかった。そして今、階層都市川崎の、その奇妙な構造の最奥最上階層にあるのはゲームセンターだ。