アイドルとアイドルまで

 関係性を描写する場合、その関係を構築する二者の人格は通常無個性に、存在しないものとして描かれるのが基本だ。ストリングスの振動で質量が発生するモデルをイメージしてもらうとわかり易いかもしれない。ひもの両端に質量をもった点が存在するのでなく、関係性の両端の二者、インベルと春香はそれぞれが「偶像=アイドル」であり「質量=人間性」を保持しない。

 このことによりインベルは「重さ」を持たないロボットという系譜上に位置づけられ「慣性制御」のみが設定説明として用意されることになる。また春香も両親との過去らしき記憶のフラッシュバックはたびたび挿入されるものの突っ込んだ説明はなされない(伊織や真、雪歩らがそれぞれ過去に自らを結びつけようとするのと対照的に)。この二者は互いの同質性を見出すことで結びつこうとする、つまり女の子同士であるという百合性によって体格の違いによる隔絶(大きすぎて裂けちゃうとか、あるいはガバガバとか)が乗り越えられていくが、実は互いに相手を「同じ」だとみなす根拠は何もない。あるのは両者が実際につながっているという関係性の根源的な存在のみで、関係が途切れるという状態についてはそもそも想定の外にある。つまり、異種族・異存在間交流のような本来無関係な者同士が接点を見出していこうとするような場合の偶然性や運命性は全く必要ないし、そもそも異種交流であるかすら怪しい。性別を越えない意味はそこにある。

 アイドルに人格の固有性を見出す失敗を避け質量を持たない関係性でもって純アイドル的であるようなアイドル性を見出そうとするのはアイドルストーリーの常套手段であり、その関係性の一端を巨大ロボットが受け持つことでよりアイドルとは何かという解答を求めようとした。それはおそらく単純に春香と千早を先輩後輩ライバル関係に持ち込むような設定では互いのファンが剃刀を送りつけ合いかねない(準公式のキャンペーンにおいて黒春香のような特殊な色付けを見出させかねない)ことへの回避も兼ねていたはずだ。

 アプローチが間違っていたとすれば、それはアイドルの形にこうした思弁による解答を与えようとしたアイドルオタク的態度だろうか。アイドルはストーリーに縛られないのである。