洋ゲのなんかあのへん。
http://d.hatena.ne.jp/hiyokoya/20081014
拠って立つところの違いを割かし痛感する。
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「受容理論」という言葉を見かけるときに感じる違和感というのがあって、まるで受け手の側に立ってない作家さん側の見下してる感が丸出しになってる単語だよな、という。受け手の側に立つなら作品という枠組みやそれに順ずる何がしかは存在しないでしょう。でも、作品があるというのが前提で「作品を受容する」のが受容なのだ、というようなニュアンスが感じられる。そんなんだったら、その「受容する受け手」は単にミニチュアの作家だし。
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佐藤亜紀は女の子の話しか基本的にしない。食うに困ったら股を開いて、その金でホストに貢いで太く短く生きろ、という。
好対照になっちゃったなぁ、というのが薫さんらの「男の子は童貞同士で飲みづきあいで夢を語ってればそのうち時間が経ってるよ」という。なんか俺が余計なルートを開発しちゃったせいで悪影響を与えた気がしないでもない。
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件の話であるところの
http://vimeo.com/1807754?pg=embed&sec=1807754
について。
3Dがことごとく張子であって、内臓や構造といったもので中身が詰まった形で自立してないことを、作ってる人たちは直感的に気付いてる。テクスチャをペタペタ描画してるうち、ホログラムの人物に内臓は詰まっているだろうかと疑問をもつ。そこが終点であり始点であることにも、半分ぐらいの人は気付いてるんだと思う。そういう場所に出てきたのが上リンク先のようなのじゃないか。
そして一方でアイアンマンの映画では3DのCADのような肉をまとわない線だけが構造を描き得ることが示されたように、バーチャルボーイの可能性が今こそ再発見されるべきではないか。
と、そういう展開にボクなら持ってってしまう。
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自分以外の男の子というのがどっかに存在してくれてるという点で、みんな夢があっていいなぁと思う。自分以外に女の子しかいなかったらどうなるのか、という話はしてくれないのだが。