キミとボク

 でまぁ、葉鍵というふうにまとめられるジャンルは、恋愛やセックスを扱ってるのに「二人」を描写するものじゃなかった。

 そのズレを埋めるために多くの二次創作や、あるいは文芸評論の用語を使った論評なんかが生産されました。恋愛関係を描写しない原作のキャラクター(沈艦の海江田×深町など)の二者関係を捏造するためのやおい系二次創作フォーマットが適用可能だったというのは、つまり原作にそういう描写が存在しなかったということです。

「二人」を描写できなかった理由はいろいろありますが、2000年以降については、小説などの形式の側からの圧力で押しつぶされてった、ということは言えると思います。文芸評論の類の単語を使ってみたり、自意識過剰さを振り回してみたり、「孤独」「一人」のほうが何となく凄いような気分になってった。んでエロゲーはセックスできて二人で慰めあっていいじゃん、ていう。いや、自慰だから一人だよ全然二人の世界じゃないよ、という反論はしづらいですよね。こういうとき「プレイヤー」という立場を主張するのは難しい。

 抜くためのエロゲーである以上は「キミとボクの二人のセカイ」なんて存在しない(大体、『ほしのこえからして対話相手なんて顔も見えないし端から一人きりというのの象徴のようなもんでしか相手を描いてないのを二人のやりとりっぽく見せてるだけ)のですが、なんか「川名みさきは俺の嫁」とか言っちゃう人が出てきたりして話をややこしくしてくれたおかげもあって、ノベルゲーの言葉の質的な違いといった部分を掘り下げて語ることも出来なくなってしまった。おまけに後から葉鍵を評論するぜつって首を突っ込むんでくる人とか文芸的に凄い凄いいう方面しか語らなくなっちゃったので、余計にそれ以外のアプローチは不可視領域に追いやられてった。まぁ、最悪な環境と言っていいと思います。

 んで、「相手を求めても得られない」のがフォーマットで固まってて動かない代物を土台に何を作れるかがノベルゲームのジャンルとしての目標・挑戦でした。そんなんでどうやって愛し合うセックスを描けというのか、という不可能性との戦いを、どっか超時空でやらかしてたわけです。まぁ、所詮は誰も気付かないのですが。そーゆーのがスッキリ忘却されたあたりで「相手を求めても得られない」フォーマットを何の捻りもせずに適用する「ひぐらし」が出てくるわけです。