ゲームの影響

「表現」というとき、言葉にならないような(伝達の通常の回路を通さないような)形で、誰かに何がしかを伝える、という目的に従事してるとゆーのが、大雑把な定義としてある。

 なので。「ゲームの中で人を殺すのが子供に影響あるわけねーだろププ」て端から門前払いで「ゲーム表現は無害だ」みたいな態度は、つまり誰にも何の影響を与えることも出来ないと諦めてるわけで、「表現」であることを自分から放棄してる。なので、「どんな意味でもゲームは無罪だ」て主張するなら、そういう意味合いでの「ゲーム」は「表現」としては存在価値がないのであって、「表現の自由」を主張する根拠も持たない。

 で。

 実を言うなら、ゲームというのは、作ってる側、遊んでる側、どちらにとっても長らく玩具でしかなくて、別に映画や小説や詩に肩を並べるような「表現」である必要はない、という前提で扱われてて。てのは、ゲームとして遊ぶのに、別に「表現」でなくても問題ない。血しぶきがなくても、リアリティに欠けてても、将棋も囲碁もチェスも高度な戦術や駆け引き(を介した実感)が存在するし、むしろ対戦相手の血や肉体的苦痛を見ずに済むから「ゲーム」なのであって。コンピューターを使用した表現であるていう部分と、ゲームとして成立する部分は根拠が違うし、むしろ噛み合わずに表現であることを拒絶しようとする傾向も強い。

 つまり、単純に映画や小説といったメディアと並べて表現手段として扱い、倫理やレーティングを取り沙汰することは、実は今までのコアゲーマーあたりのゲームの評価基準を切り離すことに繋がる。(勿論、映画でも小説でも、多かれ少なかれ同様のズレがあるが、ゲームという言葉がもたらすイメージや考え方は、そのズレを顕在化させやすい)

 で。

 しばらくぶりにね、<a href="http://www.digrajapan.org/modules/eguide/event.php?eid=27">CERO大本営発表</a>を聴きに行ってきたのだけど。

 まぁ、世間との折り合いをつけるための仕組みだから仕方ないんだけど、そーゆー話は全く出てこない。多分、意識すらされてない。5000円する報告書を買って読んだけど、内部の、ゲーム業界な人たちほど、そーゆーのを考える気はないっぽい。

 この国だと議論が成立しないから、そもそも議論を必要とするような余計なことを言わないほうがいい、てのもあるのだけど。にしても、しかし。