おかわり4話

 それなりに重要な役割になっちゃってる近所のおじちゃんおばちゃん達の顔が黒塗りなのはいいんだけども、一方で8話のプール券をくれる駄菓子屋の無名のおばちゃんは顔が黒くない。その差はどこにあるのつーと演出上の意図です、としか言いようがない。

 演出上の意図が丸見えなのは構わないのだが、でもそれが話数ごとの展開で綺麗に区切られてしまうべきじゃなかった。そこで各話の内側での連続性が維持されてると、それだけ話と話の間が途切れてしまう。原作のショートコントを繋げ起伏を潰してダラダラ続ける選択をした以上、その途切れないダラダラ間はせめてアニメ13話分全体を通してやるべきで。

 その意味で、2話で一部の生徒モブでグラデーションで黒塗りの下の顔が透けて見えるのは良かったと思うんだ。なんだけど、プール券をくれるひとの顔が見えて、ゴミ捨て場で世間話をしててフユキを褒めるひとたちの顔が黒いというのは、視聴者から見た「南家のほのぼの団欒を援助する親しい人」「邪魔する疎遠な人」の基準にあっさり乗っかってるようで、ちょっとキモチワルイ。それでいくとご近所に評判の良い子であるフユキは南家団欒にとっての部外者という見方にしかならない。本来なら顔の黒塗りは(キャラ立ちを介さない)人格の主張だと思うのね。人形の顔は黒く塗られないんだから。じゃあ駄菓子屋のおばちゃんは作劇の道具か。そうだよ、という。んじゃ無理に描かなくてもいいじゃん?

 んで。第一期との描写の差は何より家族愛の差で、おかわりのが、じゃれあいの親密さがずっと濃い。ベタベタくっつく。エンタメ的には仲良しよりか家庭崩壊寸前の距離のが面白いので、ようは視聴者サービスの度合いをどう捉えるかなのだが。

 4話、もうちっと南家三姉妹の絆を信頼してやっても良かったと思うんだ。具体的には、1話ぐらい、もっと壊れててもいい。あまりに良い家族すぎるのも視聴者の反感を買いますよという、そーゆーことじゃないかと。