てきとーでんぱ

メイドといえば …… 仮面の男

メイドといえば …… 完全無欠にしてドジっ子

メイドといえば …… 黒づくめ

結論:コードギアスを見ればいいんじゃないかな。次の日曜あたりメイドの真髄が語られそう。

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 おいといて。

 昨年メイドについて各所に聞き込んで回ったとき「学園祭理論」というのを教えてもらった。

 日本のメイドは館モンのエロアニメやエロゲが起源ではなく、学園物において学園祭イベント時にヒロインやサブヒロインたちがメイド服を着こなしたのが直接の発祥である、という理論。メイドは最初から固有の文脈を持たず切り離され、祝祭空間に依拠する。成る程、説得力がある。

 あと、90年代にあれほどの隆盛を誇りながら現在は絶滅危惧種ウェイトレス萌えと21世紀ビジネスであるメイド喫茶の成立要件こそが語られないといけない。つまり現実に居場所を求めたとき、ウェイトレスはVGに見られるようにスタンドアローン。メイドは関係性依存。

舞-HiME』ていう「戦う女の子の物語」を21世紀に立ち上げるにあたり、文脈として見出されたのがファミレスのウェイトレスで、一方で『舞-乙HiME』は仮想世界におけるメイド養成学校を舞台にしてる。つまり、姫と乙女では依拠する足場が全く違う。それが物語の行く末を分ける。

 メイドは祝祭空間でのみ自立でき、現実に降り立つためには個別の関係性を寄り代にする。秋葉原はその式を逆転させメイドを街中に多数立たせることで祝祭空間として完成した。メイド喫茶は「お帰りなさいませご主人様」と唱えることで空間のパブリックとプライベートを逆転させる。パブリックは社会のシステムが律する場、プライベートは人が律する場、つまり人とシステムの転倒。

 一方でブロンズパロットが元来は郊外型・自動車社会を見越した店舗の先駆けとしてあったという話と結びつけるなら、ウェイトレスとメイドは(虚構としての)郊外と(虚構としての)都市の対立だ。アンミラのあった時代の渋谷こそが「郊外化された渋谷」だった。郊外はつまり完成された管理システムの律する未来社会のこと。

 現物と現金の飛び交う場が祝祭空間で、信用は祭りでは排除される。関係を信じることでしか成り立たないメイドは祝祭空間で関係性から開放される。逆に誰にも属さないメイドが存在する場において何も信じることは出来ない。