みなみけアニメの話

 例えば、一般的な家庭や学校での人間関係ってのはギスギスしてるもんだよ、という発想で評価したとする。その時点で根拠のないリアリズムで。前に今木さんとこの掲示板でホワルバでのランダムイベントで「好感度」の異なる会話が時系列が守られないで錯綜するのを指して「現実のカップルの別れ話ってそういう感じだよね」みたいな趣旨のリアリズム評価があったけど、それと同じ。

 つまり、「現実」を、法則性から外れた純粋なノイズとして捉えるのと、一定の「科学」「実証」に裏打ちされた法則性として捉えるのと、二つの「リアリティ」を使い分けつつ、言葉としては混同させるていう。

 例えばね、僕らが「ぴちぴちピッチ ピュア」で学んだのは「作画の崩れ」すらも演出になりうる、ていうことだった。いわゆる「下手な絵」と「上手い絵」の回の落差というのが、シリーズ二期のピュアだと殆ど存在しなかった。海外発注の「崩れた作画」を各回に均等に配分することで全体をならし、要所を「綺麗なバンク絵」でおさえて。発想としてはシリーズの重要な回にスタッフを集中する手法の小サイクル活用だけど、その結果、作画の質そのものがリズム感を生んでいった。「下手な作画」は総トータルの演出として「異なるリアリティによるカット」になった。DVDだと修正されちゃうんだけどね。

 みなみけでさ、「不必要にリアルに書き込んだアップの顔」と「かわいらしい萌えキャラ風味の顔」が交互に登場するとき、カット割りに既に絵のリアリティによる落差から強いリズム感が生じてるんだけど、それが生かされてない。絵の落差がリズムになること自体は、アニメと実写を組み合わせた、例えばモンティパイソンなんかで既に確立してるから別段に変な話じゃないと思うんだけど。「みなみけ」だと、動画も、ただ個別に投げつけてるだけという感じしかしない。なんかね、古参オタクの「この部分の作画がいい」みたいな部分評価主義が優先定着して、どうせTVアニメの作画レベルなんだし、あとは声優の一貫性だけで評価しとけ、みたいな。

 製作環境の劣悪さを逆手にとって発展したのがジャパニメーションなりとか胸をはるくせにさ、と漠然と思う。