吾妻ひでおの話

「『シベール』で描かれていたのは、まんがのキャラクターのセクシャルな身体でした。当時、セクシャルな絵といえば、まんがっぽいシンプルな絵柄ではなく、劇画タッチでできるだけリアルに描こうとするのが普通でした。(中略)吾妻をはじめとする『シベール』の描き手たちは、手塚治虫以来の抽象性の高い「まんがっぽい」「かわいい」絵柄を使ってそのままセクシャルなもの――セックス可能な身体を描こうと試みていたのです。」
ササキバラ・ゴウ『<美少女>の現代史』講談社現代新書 2004年5月)

 この本では全体にわたって「身体」に焦点があてられており、吾妻ひでおの業績評価も「顔の描写」じゃなく「身体の描写」が中心になってる。『失踪日記』で、とり・みきが小さいコマの中に全身像を描く吾妻のそれと今のバストカットばっかの漫画とで比較してたし、おそらく「手塚治虫の系譜のまんがっぽい絵柄」においては「ロリ顔」が主要な問題だったわけではないのだろう。

 顔の造形、表情を巡って、僕らと上の世代とは意識のズレがある。「ロリ絵」がシェアを獲得し発展してく過程で、おそらくは「動かないアニメ」や「デッサンの狂った少女漫画」や「バストカットばかりの同人誌」や「アニメ絵を採用しつつまるで動かないギャルゲー」のような環境に適応したことで、ロリ顔の微細な差異に「表情」を読み取る読解作法が普及した。だから逆に言えば「よく動くアニメ」や「正しいデッサンで描かれたアクション少年漫画」や「立ち絵がよく動く擬似3Dエロゲー」に慣れていけば表情を読み取る感覚は失われてくはずだ。

 例えば過去の「いたる絵」は微細な表情に全部を注ぎ込んでて、『 AIR 』の無口で表情の変化の少ないキャラクター遠野美凪ではコンシューマーの攻略本に掲載された表情集で見ると瞳の中の光の僅かな変化でもって十数パターンの顔が描き分けされてる。もちろん台詞は「……」ばっかりで顔だけが変化する。この先そうしたことはもうやらないだろうし、やれないだろう。声優をつけるのが当り前に要求される時代では無口キャラは居場所がないし、このあたりから類推される製作環境にそーゆーのは向いてない。立ち絵が大きく動いて喋って「演技」する時代に移行し、そうした「表情」をユーザーが読み取る必要も消えた。単に時代の流れだ。

 続く。