弟ネタ その後

 なんか帰ってきたんで「大学院の院長が浅田彰なんだって〜?」と振ったらメール交換してるらしくてメール見せてもらった。不肖の弟子と違って教育熱心なんだなぁと思った。

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「映画的」と「演劇的」でここんとこ。

 例えば、観客のほうを向いて語りかけるから、あるいはカット割りせず長回しで撮るから「演劇的」であるてのはシナリオを回してくための議論に依存しすぎてる。

「ギャルゲー的」であるようなのは、その根拠足るべき台詞そのものが志向性を欠いてる。ベクトルを持たない言葉があって、そこに飛び込む。それがプレイヤーと観客の違いとなる。飛び込む場所が、ノベルゲーム以前であればパラメーター数値の管理する領域であったのが、今では言葉のある場所に直接飛び込む。

 そんなシナリオ構築の手法はありえない、プレイヤーでなく観客でいいじゃないかと言うなら、当初に話題に上がった「演劇的」なる単語を吟味する意味がない。もはや今までのフォーマットを守る意味がなくなり「演劇」のふりをする意味もなくなるからだ。だから漫画的なり映画的なり、それぞれの好む既存の映像形態に拡散していく。「演劇的」という概念提唱は、それらへの移行を阻む。結局のところ「映画的であるような画面作り」を先行させて出来上がった場においてしか「演劇的」のような概念はありえない。単に出来損ないの映画モドキであることの言い訳であるような「演劇的」て単語にしがみつかなきゃいけない、というのがその場合の結論。

 そんな場を強要してくる映画のそれを、もう少し疑ってかからないといけない。てのは、例えばバーチャルリアリティのような物言い(今ならメタバースって言うのか)が、あまりにも「映画的」イメージでしかないというあたり。つまるとこ映画で語るのに都合のいい空間としてしか仮想現実はありえないんだろうな、という。

 映画は、どこかで決定的に気持ち悪い。そーゆー話をしないといけない。面倒だ。