テヅカ

 マンガが原理的に必ずどこかで顔の書き分けの限界にぶつかるのを同じ顔は同じ役者だからと言い訳することで書き分けの問題をクリアしドラマ製作の基礎を作り上げたスターシステムという概念とその基礎に依って成立した劇画の広がりが「判子絵」という顔の書き分けができないという意味の言葉が消費者側によって生み出されることで終焉を迎えたというのがテヅカイズデッドという本の粗筋だが、もちろんこの粗筋にはいろいろ嘘があり、判子絵師というコトバがエロゲプレイヤー発でありマンガ読者から出た言葉ではないのは記憶されるべきである。

 さておき、かの本で「キャラ」および「フレーム不確定なんたら」の良サンプルとして紹介された茜虎徹ツバメしんどろ〜む』だが、この例はコマが重なりあうものとして扱われているものとして読める。コマの上にコマが重なるなど今さら珍しくもないが、重なっている以上コマは面として扱われ枠線は線ではなくなっているというのは、かの本で線の多義性が失われているとして例示された枠線遊びの話と関わる。『ツバメしんどろ〜む』の各ポーズは様式的というか既存の決めポーズの羅列に近しいもので人物の運動や事物の描写を必要とせず、よって人物をコマの中に収める必要がない。逆に言えば枠線の上に覆いかぶさるキャラクターの図像は縮小しコマの枠内に収めても原理的にはそのまま読める。読者の視線を意識し操作するのは拡大縮小の決定が大部分であると言える。ちなみにこの作品は絵でシナリオを説明しない(できない)ため展開が早く一方で説明台詞やや多め。まぁ、こんな説明は100や200の似た系統に丸ごと当てはまるが。ここでは動くことを絵やコマで描写するのはとっくの昔に放棄されているわけだが、そこまでは往年の少女漫画と同じ。違うのはコマ割りによる時間継起の概念がコマの枠線が消えただけで実際は生き残っている点にある。「付属記号に萌えるための萌えキャラ」という中庸の概念が生息するのは主にこのどっちつかずの領域だ。

 ロリっ子かわいい。