動くこと

 何でも程度問題なのだから、映像にも動くことと動かないことへの両極はある。アニメが映画の中でもとりわけ動くことを志向するのなら、ゲームとりわけノベルゲーム系列は動かないことを志向する。ゲーム的というのは多分映画の人たちの言うTV的という態度のもっと度を越したもののはずで、よくTVはリポーターやマイクが画像の中に入ってくるという言い方を見かけるが、ゲームのための様々な数値や文字や記号はプレイヤーとの露骨な相互介入を促すという意味でリポーターの声やマイクの延長線上だし過剰な文字テロップもテキストアドベンチャーと地続きで、テキストアドベンチャーでいわゆる「映画的」「アニメ的」な演出を模倣するほどハスミっぽい映画評論の蔑むところの「TV的」「ワイドショー的」な絵面に近づく。折衷というのはそういうものだと割り切ることも出来はするが。

 今の漫画が漫画であるというのは複数のコマ(噴出しも含めて)が一度に視野に入ることであって、そのコマの相関関係、どのような序列で組み合わされるかという読み方の問題は二の次でいい。大事なのはそこに「区切るということ」がコマや吹き出しの線として絵や文字と同じ領域にあるということで、つまり文法が絵でも文字でも記号でもなくそのまま書き付けられているというところにかかっている。文字情報や絵を幾重にもレイヤーとして上から重ねていくのとは違う。ゲームであっても漫画のコマ割りに近しい表現は幾つもある。しかしそうした箇所には「ゲーム」の入り込む余地がない。

 選択肢は線を書き込まないことによって成立する。