群体考察

 群体モノの代表は当然ながら「とらいあんぐるハート」であり、その系譜を引く「リリカルなのは」だが、「とらいあんぐるハート」の1作目が『 To Heart 』と大きく違うのは和姦のエロシーンが複数回あることで、このことが「ヒロインとのエロ=ゲーム攻略のゴール」の旧世代の考え方でシナリオが書かれていた東鳩や鍵ゲー系譜との違いで、時代が下っていくほど和姦複数回が多数派になっていく流れで、「とらハ」がまあ、時代を制した。家族とか共同体が扱われるのも、そうしたエロの扱い方を基盤として成立してる。ようするに、既に手に入れているものだから、対象化する必要がないのである。これがエロ対象で在り続けるしかない「ヒロインとのエロ=ゴール」の枠組みの下では、誰が「家族てのは対象化されるものじゃない」と世迷言を言おうが、必ず具体的な個人として対象化されることになる。(問題は何故そこまでして「家族」を持ち込まなければならなかったのか、だが)

#いちいち書かないが、鍵のエロ排除の路線は旧世代の「エロ=ゴール」の発想の裏返しでしかない。

とらハ」1作目はマップが学校で、まだ共同体や家族の概念はエンディングあたりでしか登場していない。1のエンディングは、後日談として妊娠・結婚が描かれるのが多いのが特徴で、学校での恋人関係がそのまま恋愛結婚へと連続してる。セックスというゴールを排除した代わりに、結婚という「人生のゴール」をゲームの終わりとして導入する。

 東鳩では恋愛結婚のような巨視的な人生設計は全く視野に入っていない。一部のシナリオはドラマティックではあるし、これを十代の頃にプレイしていれば、あるいは人生最大の出会い以外には思えなかったりするのだろうけれども、一方で一部のシナリオでは、そうした恋愛物語を「たかだか高校生の恋愛模様」として扱ってみせたりもする。セックスをゲームのルール上で決定的なものとして取り扱う一方で、そうした高校生の恋愛模様を舞台にしたゲームそのものを、さほど重大な案件を扱っているものとはみなしていない。少なくとも、青紫担当分は。

 多分、このバランス感覚が、萌えを絶叫しないと気がすまない頃の熱気から随分とかけ離れていたのだろうけども。