続き

それらに対しエンディングリスト、既読率表示というシステムによる補助があてがわれてみれば、そのパーセント表示が与えてくるのは分岐シナリオの有限性、箱庭の閉塞感に他ならない。たった一人のヒロインとの絆を求めてください、なんて殊勝さへの訴えかけは廃棄され、限りない選択の結果として僕はここに立っているのだなんて独白は白々しく、そこに立っているのは多くて1000通り程度しかない狭苦しい有限の分岐の中の一つであるという、口にするのもバカらしい当り前の自覚だけが残される。『ONE』から『CLANNAD』への変化というのは、『月姫』から『Fate』への変化と同じと言っていい。『CLANNAD』でひたすらに多様な展開を作りこんで見せなければならなかったのは、言葉と事物が完全一致してしまう(つまり、書いた分しか世界は広がらない)麻枝言語観がシナリオを世界の広がりと重ね合わせて見てしまったために生じた、現実から隔離され完結したテーマパークでしかなくなった分岐シナリオ世界の限界に対する精一杯の抵抗だった。

ひぐらし』は分岐を排除しながら並列する展開を示したことで分岐シナリオが陥っていた閉塞を打破することに意味があったのである。あるいは、互いにリンクしていることを示唆しながら、リンクの実体を示さないことで、一つの世界を完結させることに価値観を見出してきたゲーム物の小説から、外へと踏み出しえた。

……はず、だったのだが。
閉塞までいかないものの、パンチの欠けたところに落ち着いてしまった感は否めず。

えーと。
つまり、余計な捻りを入れて悦に居るより先に、読者を信用すればいい、という話なんだけども。

そろそろ眠くなってきたので切り。