続き2

エロは、未だに正面から見つめ語ることがはばかられる要素です。日記で「たてすじ」とかサクッと書けてしまう人でさえ、真面目な議論でエロをエロとして取り上げることを躊躇します。この根深いエロ回避の身振りが「ネギま!」のエロシーンをブラックボックス化して意識外に追いやり、その結果として作品から抜け落ちた空白を補うべく「萌え」や「燃え」と呼ばれる読み手の自己運動がフル回転し、元々何が欠けているかを認識できないゆえに自己で補完した部分を取り除いて見つめることが出来ず、フラットな画面が起伏に富んだものとして認識されるに至るのです。
すなわち、このヌードは僕は無視するけど誰かがエロとして消費しているのだろう、だからこれはエロ目当ての客のためのエロシーンとしてあり、それ以上の意味はない、だから作品の他の要素と関連して考える必要はないだろう、といったところでしょうか。
実際に「ネギま!」で自慰にチャレンジしてみると、その難しさに苦労することになるでしょう。僕の場合、何とか頑張れるほどのエロティシズムを感じ取れるのは下着姿や裸ではなく、ネギと生徒とのキスシーンです。学園祭のコスプレイベント会場の千雨で本当に抜けるかと問われると、告白しますが物凄く頑張りましたが最後は他のシーンの総合でないとダメでした。

このように、ネギまは、大衆向け商業娯楽作品のその商業性そのものを体現したような作品です。その結果として、話が先に進むほど情報量もまた過剰に、飛躍的に上昇します。情報量が増えると作品内圧力が高まるわけですが、ネギまの場合、戦闘も萌えキャラもエロも全てがフラットで質量がないために単純な意味での足し算が成立しません。結果、圧力は大して上がらないまま投入される情報量だけが増大していくことになる。
僕が期待するのは、その情報のカオスがある閾値に達したときに、何か新しい人工生命が発生しないかなあ、ということです。