いつも思うのだが

ロボ萌えの人は「ネギま!」に萌えるのがスジってもんじゃないだろうか。
ネギま!」について一つの作品として論じるというのは、いわば魂の存在しないはずのパーツの組み合わせに魂を込めようとする、あるいはヒトならざるものにヒトとして相対する作業なわけです。こんなスリリングなことはない、と思いませんか?