その他、戯言。

真っ当な文脈と無関係に、昔、共感(人格を持った相手に感情面などで同調する)と同化(道具を身体の延長として一体化する)とで個人的に分けたことがある。

■2003/12/23 (火) 水月 その10

こちら*1の12月21日。
>ゲーム中の登場人物に、プレイヤーキャラクターが浸食されるのが鬱陶しい
こうした意見が今更のように出てきていることに注意すべきだろう。これと類似の意見は「プリンセス・ブライド」をプレイしたこちら*2でも見受けられる。
これは興味深い問題で、かつて「To Heart」や「ONE」、そして「Kanon」などの代表的なノベルゲー群においてヒロインによって主人公の私生活はもちろんのこと内面にいたるまで徹底的に蹂躙され征服された経験を持っているはずの古強者たちが驚くべき弱音を吐いている状況について、我々はもっと突っ込んで考えなければならない。これはプレイヤーの老齢化によるものなのか、それとも過去の「To Heart」と「水月」には明確な差が生じているのだろうか。
後者の立場をとって論を進めてみる。外見的な違いから指摘したほうが早いだろう。すなわち「水月」も「プリンセス・ブライド」も、作品内において主人公の顔が登場している(※注)。主人公の人格がプレイヤーから独立した存在として作品内に登場し、上記の作品群における「顔の描かれない無色透明の主人公」とは全く異質の存在である。
ここに「ゲーム」と「ノベル」の受け取り方の違いを見て取ることができる。どれほどに小説然としていても、「顔のない主人公」はプレイヤーにとってゲームのコマでしかない。ゲームのコマとは、プレイヤーの身体の延長であり、逆に言えば身体のうちのホンの一部分でしかない。
一方で「顔のある主人公」とは人格を持ちフィクション内において息づいているプレイヤーとは異なる存在、他者である。それがどれほど薄っぺらい描写であっても、作品内の描写が、彼の人間としての存在の全てである。我々は彼を一人格として認識し、共感を通じて「感情移入」する。

えらそう。

■2003/12/23 (火) 姉、ちゃんとしようよっ!

「顔のある主人公」と「ハーレムのような激甘シチュエーション」の組み合わせの代表例として挙げておく。
この作品では二重の制度によってハーレムを成立させている。すなわち「要芽へのリベンジのためのゲームパート」と「姉と弟という所与の枠組み」のことだが、これらが前提条件として与えられることで作品は空中分解することもプレイヤーに拒絶されることもなく、エロゲとしての機能とシナリオ分岐ギャルゲーとしての形式の双方を満たしている。
なお、それにより捨て去られたのはいわゆる「ゲーム性」と「全シナリオを通して浮かび上がる世界観/バックボーンとしてのストーリー」であり、そのこと自体はエロゲ/ギャルゲーが「ゲーム性という亡霊」「物語への妄執」を脱し別の表現形式として自立を果たしたとして評価すべきだろう。
PSゲーム「HAPPY LESSON」においてあまりにも時代を先行しすぎて受け入れられなかった(アニメ化に際しては徹底的に否定され茶化され解体されることとなった)無制限のハーレムシチュエーションの意味するところに、我々はようやく追いつこうとしている。
追記。ゲームパートの目的である経験を積んで要芽へのリベンジを果たすことが姉と弟という所与の関係の崩壊を意味するとして否定気味に語られることは象徴的で、それは「目の前の敵との限りない闘争」を選んだ月姫と対極を為す。
ゲームであることを放棄したゲームと、物語としての形式を踏みにじる物語、それぞれがそれぞれのあり方を肯定されることを願いたい。

やっぱりえらそう。

私の下記で言っております三次元というのはポリゴン空間のようなイメージを言っております。絵のためや演出のために用意されるのではなく、座標軸で配置が決められていてそれに従って計算され描画されるような。
たとえばアージュの「君が望む永遠」などのキスシーン、ヒロインの顔が全画面アップで迫ってきますが、あれなどモニターの奥にバーチャル空間があって、ゲーム画面はプレイヤーキャラクターの視点位置であるという思想によって作られています。結果、何か間抜けです。が、気がつけば他のメーカーでも採用されているようです。実のところ、そうした空間(世界)こそがRPGやAVGなどのゲームメディアで求められ提供されてきたメディアの特質で、自由度というのもつまりは空間がある、空いているということです。ついでに言えば<「空」(高み、鳥)への志向>http://d.hatena.ne.jp/imaki/20050405#p1というのも同じことですね。シェンムーに代表される作り込むことで空間を追い求めようとする態度と、AIRの空への志向は一致します。作り物ではない空間、ファミ通の分厚いデータ集で網羅されることのない情報量、プレイヤーの行動を制限しない自由度、そして空。途切れていること、繋がっていないこと…自分ではない別の誰か。
http://kaolu4s.jugem.jp/?eid=221#comments

このあたり暴走気味。
 
そしてもちろん、上の記述の元ネタじゃないかと思われる話関連。
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060707#1152298729
から、いつものアシュタサポテの過去ログへ。
文字化けは、ソース表示で適当に弄くれば見れます。
 
まあ、「ヘボ将棋、王より飛車をかわいがり」の言葉が事態を的確に言い表してる気がする。
つーか前にそういうネタ考えたな。飛車が好きで好きで飛車同人誌を出して飛車小説とか書いて、そっからキャラクター展開して飛車が主人公のAVGRPG出して、そこまで行ったらそれは将棋関連のゲームと考えるべきか否か、みたいな。どっかで書いたっけ?

*1:後から注/http://homepage2.nifty.com/xgamestation/の2003年の戯言

*2:後から注/http://imaki.hp.infoseek.co.jp/200310.html#11のあたり。プリブラは「そんな毎日身近で顔合わす女の子たちの処女五人切りなどしたいわけなかろう.気まずいどころでは済まない.」http://homepage1.nifty.com/fluorit/ring.html#11という、まあ、とにかく追い込みをかけてくるタイプのゲームなんですけど。そいや、何か近い匂いのする『彼女たちの流儀』が発売中。