京極夏彦「陰摩羅鬼の瑕」

ここんところで推理小説をダシにバカ話を書いてたらフラグが立ったので読む。
 
…うっわー。超微妙。
えーと、今回はいつにもましてグダグダです。
 
基本的にあたしは他人の感想を気にする人で、というか誰か一人でもいいから感想を書いていてくれないと感想を書けない臆病者なんだけれども、今回は本当に他人の評価ばっかりが気になってしょうがなかった。で、例によって欲しい感想が見つからない。…と思ったらなんか懐かしいページhttp://www2.osk.3web.ne.jp/~naokikun/diary17.htm発見。ああ、やっぱり引用元がいろいろあるんだ。そういう情報ってネタバレを含むことも多々あるからネット検索ではなかなか見つけられないし、あたしは推理小説推理小説の理屈なんて笠井潔もクイーンも一冊も読んだことないので、京極堂シリーズの元ネタ探しは困ってばかりいます。「薔薇の名前」が余程好きなんだな、というぐらいしかわかんない。
基本的に僕の推理小説観はホームズでしかなくて。「緋色の研究」や「四つの署名」が今でも推理小説の基本形を為していると思っています。「推理小説やおい」もそういう話をしてるつもり。つまりまず「物語」があって、そこから中心となる登場人物たちの人間関係が殺人事件という関係性に抽出されて、その確定した関係性と世間一般の常識・良識・日常というラインの間に見出されるスペースが密室の世界、館物の世界、外界から隔絶されたムラ世界といった推理小説の描く世界になるのだろうと思ってる。あるいは「物語」という方程式の描く線と「読者の日常・常識」という基準線の間の面積が推理小説の「言葉の世界」で、それを提示するから推理小説積分だ、というストレートな認識でしかない。
だから推理小説の領域は自ずと決まってると思っているし、それを超えようとしたらその先には何もないか、ノイズになるか、「物語」に立ち戻るしかなくて。そういうのを望まない推理小説ファンというのはジャンルを読みつづけることで得られる技巧的積み重ねの快楽、物語に無限に近付きながら物語には到達しないギリギリの均衡をこそ楽しんでいるのだろう、というような認識でありまして。
話を戻すと、京極堂シリーズが上のような意味の推理小説であることを避けてるのは感想をあさっていても誰もが承知しているんだけれども、それをどう了解しているかの温度差は当然あって、まあ、今回も数十程度の感想を拾っただけではそのへんの温度差の発生源がわからない。
で、自分はどうかというと、よくわからない。
すごく雑に言うと、「陰摩羅鬼の瑕」では推理小説であることは投げ捨てて「物語」に立ち戻ってしまってる、と感じたわけですが。でも今までのだって推理小説ではないわけで。館になることで三次元的になったのもあるし、そこは時代に敏感な作者らしいところで。しかし、しかし何よりもシリーズを特徴付けていた例のアレの扱いが、今までとは完全に違ってしまってる。それは「塗仏の宴」で予感されていたことではあるのですが、ここまで180度扱いを転換するのは何でや、というのに対して今あさってる感想群を読んでる限りでは誰もコメントしてない。いや、話の展開上は完全に筋が通るんですよ。さらには「姑獲鳥の夏」との対比、語り直しとしても、180度転換は全く正しいと思う。つまり、シリーズを特徴付けていたアレはもう必要なくなって、それは関口先生の心の流れと密接に絡んでいることはその通りなんですが。
 
ああ、寂しいのか俺は。今、もしかしたら、と思った。
キャラクター小説っていうのは「キャラクターの物語がない小説」のことで。推理小説は「探偵の物語」ではないから、探偵というキャラクターのキャラクター小説として受け止められます。そのキャラクターの物語が語られてしまったら、それはもうキャラクターもキャラクターのいる世界もなくて。
彼は行ってしまうのか。そっか。その予感か。
ごめんなさい。わけがわからないかと思いますけど、少しストンと落ちましたので終わりにします。