コンビニ店長DIS記事ではてな村長が釣れた件

煽りタイトル書いただけで力尽きそうですが。
先日書いたのが、しらんうちに爆釣状態になってたらしく、気づいたら珍しい人がいたのみならず、この人にしては珍しく(…もないか。基本的に捻りのないコメントつける人ではある)見当はずれなコメントだったので、取り上げてみます。

とゆーことで以下。
 

>kanose
>MK2さんネタで「公共」とか言い出すと、なんていうか…! 経営者みたいに社会的影響力が大きい人とブロガーを同じに見るってすごい世界観2013/04/28
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/tdaidouji/20130424

 
この文章だけでもけっこう色んなアレがアレしてアレなんですが、めんどうなんで手短に書きますと、また全く意味のないツッコミです。
村長は社会的影響力の大きさという観点でもって、「経営者」「ブロガー」という対比をしてます。
文意としてはブロガーは社会的影響力がない、というふうに読めます。
ですが、今回の場合、そんなん、どっちでもいいのです。
コンビニ店長の文章は、それなりに読者がいると推測されます。仮にそういう人気ブロガーが社会的影響力があったとした場合、村長のゆってることは的外れです。
では、人気ブロガーに社会的影響力がないとした場合どうなるかといえば、そもそもネットのブログ記事に影響力がないんだから、彼より遥かに人気のない私が今回書いた文章も何の意味もなくなります。つまり私の文章もまた「社会的影響力のない、ブロガーの文章」とみなしうるからです。要するに単なるネット上のプロレスになるわけで、影響力のない同士、観客の前でアホをさらしてる、で糸冬了。
どっちであっても同じですから、私としては「人気ブロガーに社会的影響力が万が一あったと仮定した場合」のことだけ考えて書けばいい、となります。コンビニ店長から影響を受けちゃうような読者は私の文章に真面目に反応するもよし、コンビニ店長をネタとして楽しんでる人は私の文章もネタとして楽しめばよし。どちらか片方だけ真面目に受け取るもよし。読者が決めることです。
 
村長の使ったような、実社会とネットという対比でもって「ネットにはさほどの影響力がない」というツッコミは、新聞やTVなどのマスメディアや、警察、裁判所等々の「ネットの外の権力」が、ネット内の書き込み等に対して干渉しようとする場合は、一定の意味があります(匿名掲示板の脅迫予告に過剰反応する警察がバカみたい、とか)が、ネット内の「ブロガー対ブロガー」の構図では、まるで見当違いです。
 
大体そんなんですが。
 
さて、せっかく釣れましたし、これだけで終わるのも勿体ないので、村長はなぜ、話を適当に混ぜっ返して楽しむにしても、そんな見当違いのコメントに走らなければならなかったのか、勘ぐってみます。
村長だから、村の揉め事には顔を出して裁定しないといけない、ということでしょうか。
そうだと仮定しても、「社会的影響力」とやらを持ち出すのは、今回の揉め事の裁定にはあまり関係ありません。元の私の文意からも、だいぶ離れています。「ブロガーの社会的影響力の有無」というキーワードは、どうやら村長の思惑に関係がありそうです。
 
まず素朴な一般論として、ブロガーの文章に社会的影響力はあるかといえば、常識的に考えれば「多かれ少なかれ、そのフォロワー数に比例した影響はあるだろう」という結論になるのではないでしょうか。てゆかタレントによるアフィリエイト詐欺やらなんやら、「ブログ記事の影響力」を意識させる例は幾らでも転がってる時代になりました。
なぜ村長は時代に逆らってまで、「経営者とブロガーの社会的影響力の差」を取り上げ、「ブロガーには影響力がないから余計なことすんな」と言わなければならなかったのでしょうか。
 
村長が村長と言われるゆえんは、ネットリテラシーみたいのをふりかざすことに起因しています。おちょくれそうな炎上相手を見つけて間違いを指摘し、読者に「こういうの恥ずかしいよね」と暗黙の裡に「ネット記事の書きかた/読み方」を、ネットリテラシーを押し付けてくるのを指して、「はてな村」の「村長」と揶揄されるわけですね。
今回も、私の「間違い」を指摘することで、彼のネットリテラシー押し付け素材にしようとしたのだと思われます。
とすると、「ブロガーは社会的影響力を持たない」というのが村長の求めるネットリテラシーとなるのでしょうか。少し違う気がします。私のように「記事をどう扱おうと読者の自由」という前提で書くやつばっかりになるほうが、結果的にネットの社会的影響力は低下するからです。
たとえば、はてな村長がこないだ誰だか捕まえて「その記事は事実と異なるよ」と指摘してましたが、「ブログは影響力を持たない」の理屈で言えば、事実と異なってようと、なんだろうと、影響力がないんだから問題ないのです。今後、はてな村長に絡まれたブロガーは「ブログ記事は社会的影響力がありませんから、何を書こうと突っ込まれる筋合いはありません」と返事してあげるといいでしょう。そうすれば、何を書こうと自由です。
さて、書き手が事実にもネットリテラシーにも縛られることなく自由にものを書けるようになり、読者の知識と判断力にすべてを委ねる方向性に向かったと仮定します。みんなブログ記事を読む際に、すごく注意して「嘘を嘘と見抜けないやつは以下略」な距離の置き方をするようになりますから、ブログを鵜呑みにする人はいなくなり、社会的影響力も応じて低下していくはずです。なにせ「信用できない」わけですから。
村長がとっている行為は、それと逆です。彼はネットリテラシーを地ならしして、「ブログの影響力」が成立するような方向性へ誘導します。
 
ということは、村長は「ブロガーは社会的影響力がない」と言いつのりながらブロガーの影響力を実際には認め、それを強化しようとしている。
 
これはどういうことかと言いますと、ブロガーの実際の「影響力」を隠ぺいしてるわけですから、有力ブロガー保護、とゆーよーな誘導になります。いや「えこひいきしてる」とかそういう話じゃなく、読者の判断する機会をなくしてくことで、「(有力な)発信者優位」な状況に持っていきたいのですね。システマチックに物事を考えてくと、どうしたって消費者や読者の好き勝手な発言を封じ込めて「クリエイター優先」とかゆー題目に向かうものです。そのほうが管理が楽だから。もちろんこれは村長の陰謀とかじゃなく、消費者は楽をしたいものですし、クリエイター(わらい)は評価されたい、世の中ってそういうもので、村長は世の中のならいに従って動いてるだけの話です。

村長は、「私はいつだって多数派ですよ」な感じで動いてるだけでしょう(コンビニ店長も同じような人でした)。ただし、それが、ややもすると、私に対して見当違いなコメントをつけてくるように、自分の間違いも他人に押し付けてくるようになりますし、それが間違ってることにも気づかなくなります。そういうのが出来ないと村長とは呼ばれません。

なんで、村長が気にくわねー、と思ってる人は、南京大虐殺はなかったでもホロコーストはなかったでも、なんでもいいので、なんか主張してツッコミが入ったときは「ブログには社会的影響力はありませんから(キリッ」とかやるといいと思います。

めんどくさくなったので、以上。