注記

この話のポイントは以下である。
・「ある特定の読み方をする奴はバカ」という指摘の仕方が卑劣である、ということ。
 公的な場における公的な発言ならともかく、個人が創作物に対して個人の内側においてどういう読み取り方、受け取り方をするかについて他人が否定するとは、ようするに思想信条に対する理不尽な干渉である。これを最初に行なったflurryが本来なら議論の責を追い諸方面に陳謝し議論の収束を図るのが本来であり、話を辺見氏におっかぶせる態度が最悪である。これは10年前から言っているがflurryから自覚の言葉が出てこないので何度でも書く。

・辺見氏とのやりとりは、その二者の捩れた循環によってC†C批評たろうとした行為なのであり、それに文句つけるんじゃねえ、ということ。
 これはC†Cを作品として評するために何が必要かという僕自身の問いがあり、そのために他者を、辺見氏を利用したのである。当時のあの捩れた対応を意図的に演出することで作品の延長としての自己を見出し、それによってあのとき一個の作品評たろうとしたのである。C†Cは「外部」への干渉を軸にしており、それはいささかだらしなく(際限なく)作品外部にもたれかかるものだった。そうした作品としての性質を評するためには、こちらとしてはC†C肯定論者たろうとする他者を巻き込み捩れた循環構造を再現するしかなかったのである。対話を意図的に捩れさせることで作られた循環構造がC†Cの外部への漏出を塞き止め、そこでようやく作品として閉じることとなり、作品評が可能な対象として成立する。

・創作物を介しての創作物否定を評者は肯定していいのか、という問い。
 いわく批評や感想を述べるときのモラルというやつが取りざたされる。創作物の悪口いうなという話である。作者が傷つくからとかなんとか理由はいろいろ言われるが、じゃあ、創作物の中で他の創作物の批判や悪口を書いていいのか、見当はずれな意見を述べていいのか、という話がある。そうした「他の創作物を悪く言う創作物」を肯定的に述べるというのは、間接的に創作物に対する悪口を述べてることになりやしないか、という話である。
 もちろん、「C†Cはクソ」と述べて終わりにするのは実に簡単だし的確であり、そうした態度が世の中全体において許容されるなら、何の問題もない。
 が、「俺は創作物を批判的に述べたりしませんよ」的紳士面をして間接的にけなす行為がまかりとおる(そして自身のその行為に気づきすらしない)のが陰湿な日本社会という代物である以上、この手の問題は常に発生している。上品であろうとするならクチをつむぐしかないのならば、書かれたものについて書く行為には相応の書き方も出てこよう。突き詰めていったなら現実を否定するか創作物内世界を否定するかの二者択一となる(創作物である以上は当たり前だが)事態に対して、俺はどちらを選ぶのかという話である。ならば「たかがネット談義」の上において「たかがゲーム」を選ぶほかあるまい。

「あゆと真琴のどちらかを選ぶかで悩む」、そういうお花畑の住人がいて、それでいいじゃねえか。それを何か付け加えて述べればその人の苦悩が解決しうるとか、あるいは、そんなことで悩む奴は否定されるべきだとか、そんな物言いが純然と我慢ならないのである。創作も創作鑑賞も徹底して個人的行為であるというのなら(彼らは常にある種の創作が個人的行為であることが大事であると説き、作家論を吹聴する)、個人主義を徹底させるべきなのである。