空の境界 痛覚残留

 すっげえつまらなかった。

 なんだろうなこの「アニメっぽいアクション・破壊シーンとなると、あっさりそっちに引きずられます」的な。アクションだけじゃなく描写全般に渡って。監督もあんま見たことない人だし、派手なシーンで引っ張れそうな原作部分だから若手にやらせてみたら無難に仕上げてしくじった、ということか。

 原作の段階で、わりとフツーのサスペンス&アクションの範疇に収まりそうな見た目ではあるが、言わずとも、そっちに引っ張られたらアウトなのが奈須きのこ原作である。

 たとえば、将棋の駒のデザインは将棋の競技性には影響しない。一般的にゲームのゲーム性なるものが目に見えない一方で、TVゲームではTVを使うので視覚の領分が随分と大きいように思われる。が、映像音声が全てである映画や映画に準じたジャンルとは、やはり映像の受け取り方が違う。探偵モノの推理パートが映像化すると面白くないのは判りきったことだが、「推理」の「小説」が、ゲーム的であるような小説と言われつつ実際のレベルでは「書かれてる文字が全て」という定義的な論に帰着していくのとは異なり、TVゲームで実際にゲームをやってるときの感覚は、どうしたって、画像や、画面上の文字が全て、とはならない。しばしば「プレイヤー」側に回収される、とされる。

 ギャルゲーの場合、しかしこの、文字や画面に回収されない部分はプレイヤーの支配する領域なのかといえば、それもまた同意を得られにくい。そこで「作家」「クリエイター」という支配領域が提案されるわけだが、実際のところ、これもまた怪しい概念で、「書かれたテキスト」を引き延ばすために文芸評論なりの「ゲームの外側の事情」を持ち込むことで成立させるわけだが、そうなってくれば「ゲームだから、ゲームとしての意味合いで、映像や文字が全てじゃないような領域がある」という話からは、もちろん外れる。

 もちろん、ゲームのそれについては、ようはゲームをやってる間の「限定された時間空間内でのみ適用される公共性・倫理観・道徳観・美観・等々」であって、そんな範囲限定概念がゲームの外に越境して持ち出されることでわけがわからなくなる。順序としてはそういう順序。そこに一般性や普遍性をつなげようとすれば、とたんに「ゲーム」じゃなくなる。

 ゲームについて語ることは、だからこそ不毛だと言える。けども、そのへん書き付けておかないと話が先に進まないのが、この「推理ものの小説でもなければ、結局のところアクションもののアニメでもない」「空の境界」だ。