デジカメを使ってる

 しばらく前に数年ぶりに4万円ぐらいのカメラを買ったので、いちおう、なんとなくは持ち出して、持ち出した時にはパチパチやってはみてる。

 撮り始め、ファインダー覗いたり液晶眺めたりしてるとき、恐怖感というのが最初にあった。深海に捨てられた石油缶のように、周囲の空気に押しつぶされて身体が潰れていくように思われた。やってるうちに気にならなくなったが、忘れた頃に時々そーゆー気分になったりする。

 原因は判ってるのだが、つまり、ファインダーの先に、自分の身体の膨らみを支えられるだけの目的意識と結びついた実体による圧力がない。だから、なんとなくでも被写体のようなものを捉えてそれを撮っているという形になりさえすれば、そうした潰されるような感覚はなくなる。それがないままで写真を撮ろうとして視界をカメラの内側を覗き込むようにしたとき、身体がくしゃりと紙風船のように潰れる。

 盲目なら、そんなことはないのだと思う。僕はそのへんの公道で、1、2秒ほど、安全だと判ってるときは4、5秒ばかり、目を閉じたまま通常の速度で歩くというのを20歳ぐらいからよくやってるが、そのときは世界が襲い掛かってくるようなことはない。

 デジタルカメラの画面というのは、どうやら自分という奴が身体の外に出て行ってしまうように感じられるらしいと気付いて、写真というのが目的意識という考え方と深く結びついていて、ただなんとなくのぼんやりとした意識とも無意識ともつかないあり方を許容しないのだと理解した次第。

 そうしてようやく、カメラを使う人たちが、幾種類ものレンズを揃え大量の撮影器具を抱えて登山しなきゃいけないのかの片鱗に触れたような気がした。ファインダーを覗きこむ以上、「普段の自分」ではいけなくて、常にどこかへ向けてカスタマイズされ続けてなければならない。