まるごと引用

 しかし、視覚が特権性を有しているとしても、それ自体がポジティヴに価値づけられているのだろうか。むしろ見るという営みは、ごく当たり前の、誰もが行使できる権利であるかかのように自明視されている。他方、その裏返しであるかのように、それが奪われることへの恐怖に取り憑かれているのではないか。ロラン・バルトがどこかで、「五感のなかで視力を喪うことがもっとも恐ろしいものになったのは、近代になってからだ。神の声を聞くことがもっとも重要だった前近代においては、聴覚を喪うことがもっとも恐ろしいものだった」という趣旨の言葉を書き付けていたが、その意味では、視覚の喪失が死に近い何かになったのが、現代という空間であるといえるかもしれない。さまざまな回路を介して組織・流通される映像や視覚的表象は、むしろそうした執着を実体化するかのように集積していく。一つ一つの視覚表象自体やその社会的・空間的編成は、(稀有な瞬間を除けば)むしろおおむね希薄で退屈であるにもかかわらず――あるいはむしろ、だからこそ。そのことを、私たちはどこかで知っている。表象の編成様式に、実体的な権力の効果をダイレクトに読み込もうとする批判的視座は、たぶんそこで失敗する。視覚表象を過度に充実化することで、視覚経験の希薄さが計算済みにされている地点を捉え損なうのである。
 視覚性の不思議さについてもう一つ挙げれば、意味との関連で発生する問題がある。写真テクストとキャプションの(非)関係をめぐる議論のなかでもっとも論じられてきたことだが、「わかりやすさ」の幻想をかき立てるにもかかわらず、視覚表象それ自体は、しばしば、ちっとも「わかりやすく」ない。コードや文法をあらかじめ共有していないかぎり、映像は単体では意味を伝えるにはそれほど向いていない。事物を意味へと変換し、意味の平面上で相互置換していくのに最適化されているのは、あいもかわらず文字-言語なのであり、映像が「わかりやすく」思えるにしても、言語的な意味に恒常的に接続されつづけるからであろう。あまりにも円滑ですばやいこの接続の出来事性を消すことで、視覚表象の「わかりにくさ」を見ないようにする。接続できなければ端的に「わからない」ものとして削除する。(…………)

(クレーリー著 遠藤知巳訳『観察者の系譜』以文社2005年11月 訳者新装版後書き)