テキストの内在とか外在とか

 陵辱ゲで。

 受け手は内か外かの片方に居座って動こうとしない、というのがエロゲ陵辱系統のシナリオの大前提で、もちろんエクスキューズはきちんと用意されてて「陵辱」を気持ちよく成立させるためにはヒロインはそれなりに古典的な貞操観念の持ち主であるよう要求されるとか、そのへん。悪いことをしてる/非常識なことを描写してる/古典的人間像を踏まえているという内と外の相互の約束事があって、エロい文章とグラフィックで思わず興奮させることができたら良し、という。で、その「興奮」の基準は文脈依存で、にも関わらずレビューだと「客を選ぶけれども良い作品」を枕詞に使うようになる。説明放棄なのだが「たかがエロゲ」だから仕方ないねで済ませるしかない。サブカル組というかエログロ礼賛は「イージーモードが許されるのは小学生までだよねー」とかゆっててもユーザー数を確保できる多数派なのだろうから彼らはそれでいいのだがそれって中学生向けの台詞だろう。『ジョゼと虎と魚たち』とかそこまでファンタジーでいいのかと思うわけ。恋愛概念に依存しすぎじゃねえの、と。いや、特定の何かを陵辱することによって特定の何かへの幻想を強化し続ける仕組みを今さら嘆いてみせても仕方ないのだろうけど、ダルマを愛するのだったら最初からダルマでもいいじゃん。身障者少女らの海外からの素朴な逆上陸に対して10年前の『ONE』の記憶まで遡らなければならない未発達。『Sense Off』が「感覚の遮断」なら、それを通常のシナリオレベルで採用すれば盲目少女になる。ジャンル盲目少女はもっとあっていい。