萌え理論なんざ作る気はないのです

>そういうイデア的な萌えのありようとは別に、大量生産品であるところの萌えキャラを作り出すためのテンプレートとして萌え概念は実際に運用されるわけですから、イデアよりもむしろモナドモデルで考えたほうがいいかもしれません
>というかそもそも「眼鏡をかけた女の子」と「眼鏡をかけていない女の子」を分別するマルチヒロインモデルとはようするに多元論の謂いであるからして、あまりすっきりとした統一的な説明が可能だとは思えません。
http://d.hatena.ne.jp/groon/20070822/1187803417

 きれいに理論化するんでなくて、言葉が実際に運用された結果、何を生み出すか、何を排除するか、何を見出し、何を見落とすか、なので。

 この場合で言うと、大量に生み出されたものを実際に受け取っていく現場でテンプレートが作成されたとして、そのテンプレートってのが、つまりイデアです。テンプレートはイデアを孕まないというのは間違いで、ヒトガタ足す部品という組み合わせ形式のテンプレートを見出すことは、ヒトのイデアを見出すのと同じ。そこにタイムラグはないはずです。

 で、眼鏡を巡って実際に分断されてる人たちがいるのだとすれば、その人たちにおいて眼鏡を排除する形でテンプレート=イデアが作成されているはずでありまして。彼らの中においてどういうテンプレートが作成されているか、それは何処で作成されたか、が問題なのです。

 次の問題としては、そのテンプレートに沿った形で売ろうとすれば眼鏡は排除されますし、あるいはそのテンプレートを基礎にして、そこからの機能分化によってキャラクターの性質を分類し眼鏡キャラを体系化し組み込もうとした場合、「売るための手段」として本来ありえた眼鏡キャラの可能性が排除されるかもしれない、というのが考えられます。

 それぞれの「萌え」なんて、ひどく狭い領域で最適化された概念ですから、ちょっと条件が変わればキャラクターの受け取られ方だっていくらでも変わってくるはずなのに、テンプレートがそのへんを無視して適用される可能性は常にあります。そゆのを助長しがちな「萌えの理論化」とかが声高に叫ばれる状況への対処療法としてのカウンター理屈が欲しいのです。