繭シナリオ続き

 ONEの「永遠」は、もとより構造もキャラクターも世界観も一体なので、繭一人が主人公たる浩平と対峙してどうにかなるものではない。その意味では繭シナリオの麻枝は久弥以上に自分のやってることを理解してない。

 あと、エピローグで主人公が消えた後にヒロインが周囲と和解すべく頑張る、て書くとそのままAIRになる。観鈴にしても繭にしても(ついでに言えばC†Cの太一にしても)辛い日々を努力根性で頑張ったというのが具体的過程を省略してシナリオの根拠にされるあたり、そもそもの努力根性イデオロギーの乱用が問題なのだと思う。スポーツ等の対決ものなら一方で同様の努力を重ねつつ敗北する者も描写されるが、分岐ノベルでは対決図式自体が回避される。

 それでも繭シナリオがAIRやC†Cより一歩ぬきんでているのは、どう見ても「知恵遅れ」の中学生の少女の寝込みにイタズラをしかけ、なし崩しにエロシーンになだれこむことだ。ここで浩平が悪戯をしかける選択肢は、七瀬の髪に悪戯をしかけるのと全く変わりない筆致で描かれる。
 エロシーン直前に長森に電話してアリバイを作ってもらったとき、長森からすれば、浩平を自分と同じ繭の保護者であると見なしているからこそ繭を泊まらせることに同意した、と読むのが常識的態度だろう。しかし、浩平はエロシーンの直後に

>オレはその日、椎名の保護者から卒業できたような気がした。
>対等な立場。

と、抜けぬけと語ってみせる。

 このシャレにならない後味の悪さを、エロゲーシナリオだから仕方なくエロに突入したと読んでしまうのは逃げである。作り手も受け手もそういう了解をして逃げた結果が全年齢対応のCLANNADに繋がるのだが。

 だが、ノベルエロゲーとは、こういうものなのだ。浩平と繭とが彼氏彼女の関係であるのは、クリスマスを過ごすときの一時の言葉遊び、戯れによるものだ。しかし、その言葉遊びが最終的にエロに、さらにはエロの延長上のハッピーエンドに繋がるのなら、それは正しい。男女も性も何も分かっていない、せいぜい2個しか食べられないハンバーガーを欲しいからと毎回10個もねだって買って食べ残してしまう頭のアレな中学生がヒロインだろうと、それは論理的に(つまり倫理的に)正しい。

 この倫理と向かい合うことで生じる後味の悪さこそが、繭シナリオの本質である。作家の個性というよりシステムに書かされたものだが。