コードギアスのナレーション

 コードギアスの話が出ていたので。

 監督論になっちゃうのでこっちに書きますが、谷口監督の場合、語り手が本編のあらすじを語ってるわけじゃなくて、あくまで個人の視点でしかない、ていうのは常套手段だろう、と。神の視点は存在しえない、という言い方でも可。

 スクライドの場合、かなみの独白は「現在のカズマの視点や心理を共有する、かなみの心情」ていう、何かややこしいことをやってる。それと次回予告やナレーションが本編の主人公らの事情を全く勘案しない、てのはスクライド若本規夫に次回予告を語らせるのに出てる。
 この若本規夫の予告と田村ゆかりの独白に挟まれて、本編のほうはそゆ語りと無関係なところに進んでいく、という作りなんですが、えーと、スクライドの場合は、くどいですね、かなり。語りに意図的に混入させた語り手の心情がべったりとまとわりついて、それが無法な暴力の世界に生きる主人公達の姿をこちら側に足止めさせる。任侠物(赤城の山も今宵限り)みたいです。

 スクライドから裏返ってガンソード、次回予告が桑島法子で冒頭のナレーションが銀河万丈スクライドとの最大の違いは両者とも、本編からかなり距離を置いた、突き放した視点で語る点です。桑島法子はヒロインのウェンディとして語るのですが、回想の形で「古き良き時代」を振り返る、というふうに語る。当然ながら、本編でのウェンディの「その時」の心情とは違うわけです。これはスクライドの「他人の心を読む能力」による田村ゆかりの独白とは、ちょうど正反対です。銀河万丈のナレーションも同様で、若本規夫の独特の語り(今月のメージュの若本インタビューによると、浪曲の語りなどを取り入れているそうですが)とは逆に、登場人物たちの事情は全く勘案しない。

 このへん、それぞれが扱っている題材(スクライドは若年層向け熱血、ガンソード大きなお友達向け諧謔、大雑把に)との距離感とも関連してくると思います。