続き

そうしたものを追い求めて、僕たちは幼児や児童がその全能感を根拠に世界を断罪する物語へと、あるいは明々白々な非人間性が提示され容易に断罪できるジャーナリスティックな作品へと向かうことになります。
そして、それがソフ倫規制や市場の要請といった制約によって身動きがとれなくなり、そこでその身動きのとれない状況に応じた節度の範囲を守ることができなくなったとき、今度は、いまその瞬間の「人間らしさ」を守り抜くために、他の全て、かつて「人間的であること」を手に入れるためにかき集めてきたものであるはずの、法や歴史、他者との人間関係、さらには「未来」や「狂気」や「死」さえも、踏みにじり切り捨てていくことになります。あるいは、そうした「未来」や「狂気」によって踏み潰されてきた他の人間もまた、主人公が、ひいては読者が「せめて、人間らしく」あるために、人間であることを否定されていきます。

とまあ、こういうことを書くときに僕が想定しているのは当然『CROSS†CHANNEL』ですが、別に『C†C』だけがそうというわけではなく、一部の(要するに東浩紀が取り上げたがる系列の)作品群の傾向は、おおよそ、そのような読み方で受け取られる可能性を含んでいます。麻枝准は『AIR』で自爆して場外、『CLANNAD』は『AIR』で空に行ったのが地上に帰ってくる話なので単体としてはかなりギリギリ。元長柾木の煮詰まっている頃のはかなりアウト、アウトだと自分でも判ってしまっているから同じ話を2回繰り返すことになるわけですが。
要するに、あのへんのクソ真面目な方向性は行き詰まってしまうのがお定まりのルートであり、ひとり『C†C』だけが無邪気であるがゆえに、考えなしにその先へと突っ走ってしまった。「動物化するポストモダン」の挫折(でもないか。「メタリアルフィクション」の挫折かな、どちらかというと)を一作品で体現してしまったのでした。

ですが、その後も失敗と挫折は繰り返されます。というか『C†C』自体も未だにあれで良いと評価され続けていますし、ソフ倫をはじめとして外の状況は大して変わっていませんから、同じ傾向のものは出続けるわけです。

「人間と動物」というお題を巡って、次のお話がはじまります。