エロゲーの中の

>人間がただ人間であった時代は遠く過ぎ去ったか、さもなければ全くの錯覚となり、そうした楽園からの追放と、本来なら持っていた筈の全一性の喪失もただ「我が罪故に」引き起こされるものではないばかりか、そう認めることさえ不可能になった場所から、『水晶内制度』の語り手は語り始めます。
(中略)
人間であったことは一度もなく、事故のように生まれて存在しないもののように扱われながら生き、死ぬのもまた事故だが、それでもまだ、一生のうちせめて一日くらいは人間でありたいものだと願っている――それが、今日の人間です。
佐藤亜紀『小説のストラテジー』p220-222)

なんだか『Fate/hollow ataraxia』でも似たような物言いが出てましたが、まあその程度の認識すら持てないのなら物書きなんかさっさと止めなさい、と大蟻喰先生はおっしゃるでしょうが、さて、「人間であること」というのは、創作で言うならきっと「特権的」な何かを有していること、となるのでしょう。人間でなければ持ち得ないものへの執着。
上に即して言えば死ぬことが一大イベントでありその死に際して周囲の誰もが衝撃を受けその日を境に生き方が変わってしまいもする、フィクションでいえばその後のドラマ展開を決定してしまう(ドラマ的には盛り上がるけども作品内で消費され尽くして受け手には何ら訴えかけてこない)「特権的な死」であるとか。
あるいは人間でしか持ちえないものとしての「未来への展望」であるとか、かつて人間であったことによってしか獲得し得ない「狂気」であるとか。もっと簡単に友情や倫理や責任感といったものであっても構わないでしょう。