「教養小説」で思い出すというと

id:rulia046:20060329:p1読んでの反応。
そういや何かあったなあ、ということで

ただ、私がたどりついた結論としては、本作の物語はビルドゥングスロマン(教養小説)であり、名作と呼ばれる文学作品に通じる魅力があるということだ。物語を通じて語りかけてくる何かがある。そしてそれは、道徳的なものだ。人々のモラル低下が危惧される昨今だからこそ、できるだけ多くの人に『グランディアII』を遊んでほしいと切に願う。
http://www.dengekionline.com/soft/recommend/grandia2/grandia2.html

とか。上記のに反応してる、
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/grandia2.html
て記事も出てきた。

かつて私は「ゼノギアス」について書いた時にこの表現(教養小説)を使おうとして止めたことがある。寸前まで出かかっていて出さなかった(かろうじて「教科書」というにとどめた)のは、それでもエンターテインメントとして見ることができたからだ。「グランディア2」では相対的に、教訓を与えるようなメッセージが目立ってしまい、せっかくのシステムの面白さを目減りさせてしまっていたように思える。

なんか、大変だな。(他人事)
一応念のために書いておくと、『GRANDIA2』はゲームアーツの製作で、どっかで読んだ岡田斗司夫の話を信じるならゲームアーツの社長は「RPG作るのなんて簡単だよ、AVGのイベントの合間に戦闘を入れればいいんだから」というWIZ信者やZELDA信者が聞いたら卒倒しかねないことを言ってたらしい。実際、『LUNAR』シリーズのマップ構成を見るとイベント地点間をつなぐ間のフィールドがやたら狭くてイベントに関係ない場所に行けるほうが珍しく、ストーリー展開が強引な部分がある以上に様々な点で「一本道」の印象が非常に強かった*1し、『GRANDIA』シリーズも基本的には似たようなものでした。『ゆみみみっくす』に代表されるように「ゲームじゃなくて物語表現のツール」という位置付けに凄く早い時期から乗っかってるメーカーだという印象が強い。だからこそセガ機でストーリー主導なRPGを出すという特権的立場を獲得できたのだろうし、強制イベントてんこもりで「挫折」を描く『GRANDIA』を世に出すことができたんだろう。あ、「神の不在」ネタは『LUNAR』『GRANDIA』の両方で繰り返し語られますし、主人公が強制イベントで力を奪われもしくは敗北して挫折し、しかる後にくっさ〜いイベントで立ち直るのも両シリーズ共通です。
まあこれはコンピューターRPGの、「成長」が「レベルアップ」として具体的に目に見える形で獲得されるのに対応してるんで。
それでリンクされてる「ドイツ教養小説研究 - ゲーテからトーマス・マンまで -」を読んでて思い出したんだけど、以前に中世ヨーロッパ史概説入門書みたいな本で、最近の日本で中世ヨーロッパ関連の本がコンスタントに人気を集めてることに対して近代日本が取り入れたヨーロッパ文明が現代日本の根拠のひとつで、だから自分自身のルーツとして中世西欧文明を求めてるんじゃないか、というふうに書いてて。それ読んだときは「いや、単にファンタジーRPGやその界隈が売れてる余波でしょ。書泉ブックマートの2F行ってみなよ」とか思ったんだけど、いや待て、そんな話ともちょっと違うかもしれない、と。
つまり、ファンタジーRPGに慣れ親しんできた僕らの世代において、現代の現実の日本の社会の西洋的な価値観のルーツとして、疑似中世ヨーロッパ文明のファンタジーRPGの風景が原風景として参照されてしまったりするのかしら、と。
ゲーム脳と同じ程度の妄想電波なんですけど、ちょっとだけゾクッとした。

*1:メガCD版『LUNAR ETERNAL BLUE』をサークル合宿でノーセーブプレイしてて全滅しかかったところ、NPC扱いでAIで勝手に動いてしかも必ずターンの最後しか行動しないので戦術組み立ての計算外だったルーシア(CV:横山智佐)が全滅魔法を唱えて敵を一掃してくれたことを思い出します。ちなみにルーシアは魔法使用MP関係なし無制限で、しかも全体の話の流れはルーシアがギャルゲーヒロイン並に主人公。「…なんか、主人公たち、いらないね」「…ねえ」