『ヒトラー 〜最期の12日間〜』

その2。
下は原作のページ。
http://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0019340/top3.html

あんまし困ったので2回目見に行ったのでした。とりあえず、強引に目鼻をつけておく。
ヒトラー筆頭にナチス政権の人たちがベルリン攻防戦の間、役に立つことは何にもしねえで空回りしてて、その間にも軍人じゃない市民も含めてわんさか人が死んでて、ていうのが大雑把な話の流れです。
で、無意味に死んでく人たちの描写の仕方が多分「プライベートライアン以降」な感じで、外科手術ていうと医者が無造作に手足をガンガン切り落としてくのを映してみたり、やたら無造作にバタバタ戦死してったり、総じて「モノ扱いなヒト」ていうスタイルなんですが、多分それってプライベートライアンが偉いヒトが顔を出さないでモノみたいに転がってる連中と同じ立場・同じ目線の兵士の話だったから良かったんで(理念を演説してみせるのはライアン二等兵だし)、やたら「人間的」な政権担当者・指揮官たちが出ずっぱりな本作だとモノ扱いな人たちがそのまんまモノになってしまう。言ってしまえば背景の一部と化して、「人間的」であるところの名前アリの連中、ヒトラーやらゲッベルスやらフェーゲラインやらの心理描写の装飾品のような形で映画に参加させられてる。結局のところ、映画上でヒトラーらの破滅願望に対抗する立場にはシェンク大佐を筆頭に職務を遂行し一人でも多くを生き延びさせようとする職業軍人らが割り当てられるんですけど、それはちょっと、あまりにも安易じゃないかと思える。極端な話、この映画の最期に語られるユダヤ人の虐殺だって関係者の職業意識の高さと自らが生き延びようとする意志によって遂行されたんだし。何も知らずに見てしまうヒトからすれば、それぞれの立場でそれぞれに「人間的」であったというだけのこと、になるわけでさ。
実際、この映画のヒトラーは本当にそのへんにいる癇癪もちの爺さんだ。シュペーアが別れの挨拶に来た際に彼が焦土作戦命令に逆らい続けていたことを告白されて、衝撃を受けて言葉も出ず(シュペーアが別れの握手を求めて差し出した手に何の反応もせず)シュペーアが去った後に一すじ涙を流すシーンは個人的にはかなりグッときた。*1このへん言っちまえば『リア王』なノリなわけで。しかもこっちのヒトラーは『リア王』よりずっと卑近なキャラ造型だし。
彼の愚かさと狂気を素直にバカと嘲笑えるだけの常識と健全さに支えられてない限り、防空壕の中で醸成されていく死への欲望に同情/共感を禁じえない気がしてならない。そうした気分で兵士や市民の死体の山を眺めて、果たして彼らの死を「理不尽な死」だと捉えられるのか。むしろ必然の破滅として受け入れてしまいかねないんじゃないのかと。
ちょっと強引だけど、そんなふうに感じたのでした。

*1:ご丁寧にも映画の前半にゲルマニアのミニチュア模型を前にシュペーアと親しく語り合うシーンがきちんとあるのだ。