勉強になる、というか

そうかこれがモンタージュ理論なのか、と。

例によって「AIR」の話です。まだレンタル開始してないみたいですあしからず。

えーと、1話はおそらく7話か8話で同じシーンの語りなおしをすることを前提にして、そちらの脚本を基本に、要所を抜いて、かつ視点が異なることを明確に示すため、往人視点なアングルを強調しているわけです。
だから堤防の上から観鈴がジュースを買いに行くのを見下ろす構図を取り、かつそこで無意味にカメラを揺らしたりしてそれが往人の視点であることを示そうとする。
そうするとどうなるかというと、まず、構図が変です。詳しくは先日にリンクした今木さんの日記を見てください。次に、カットの接続が唐突、かつ無意味です。時系列でバッチンバッチンカットして、全く連続しないカットを容赦なく羅列的につないでたのね。
前回、僕はそれを「因果の鎖でつないでる」と書いちゃった。それは間違い。見直すほどに間違ってたとわかる。
じゃあ何で最初に因果関係があると感じたのかてゆーと、これがつまりモンタージュ理論なんだ。前後関係のつながらないカットを接続されると、見ている側は意識の切り替えがすぐにはできないから、繋がっていないカットがきちんと接続するように、頭の中で意味の連続性を見出そうとする。そうして、目の前のカットは直前のカットに意味づけされて画面の絵そのままの意味ではなくなる。
ところが、この1話は、そんな理屈を棚上げにしてカットを繋いでる。後の語りなおしのためにカメラ位置を変更しシーンを抜いて作ってある、純然たる「たれ流し」なんですわ。
だから、何回も見返しているうちに次に来るシーンが記憶され心の用意が出来上がると、各カットが接続しているわけではなく個々のシーンで独立してることに身体が気づき、見えてくる意味そのものが変化する。モンタージュ理論てのは、映像が勝手に流れる代物である以上、自動的に観客に働いてしまうものなんだね。そのへんわかってなかった。最初に見たとき、「がお」や「にはは」や「ぶいっ」の意味合いがあまりにも原作とかけ離れていて驚愕したんですけど、慣れるとそんなことないんですわ。原作通りとは言わないまでも、それなりの「がお」や「にはは」に聞こえるの。