ぼくらがここにいるふしぎ。

しばらく(1年ぐらい)放置してて、逃避的にちょいと再開したらこのフレーズが出てきて何だか遠い目に。卒業祝いにもらったんだよな藤崎詩織シングル。俺、その頃はアニメ作品のタイアップゲームは手出ししててもギャルゲーと称されるあれらには全く手出ししてなかったんだよな。それを指摘したら「新しい世界を切り開いて下さい」とか抜かしやがってな。まさかあれが言霊となってここに導かれるとは当時は思いもしなかったな。ってゆか上のフレーズぐぐったら8000件引っかかってるんですけど。世界はギャルゲで出来ているのかやっぱり。
 
荒川工の脚本の立板に水な喋りはしばしば声優付きとなじまない。にも関わらず、荒川のひとは一見するとアニメちっくにすら見える動的な会話や演出に固執する。階段を二人で降りてて追い越されるタイミングにOPに切り替わるなんてのはノベルゲームの止め絵でやるには厳しい演出です。あるいは細かく動く顔ウィンドウ。指定めんどくさそーなこの演出にどれだけ時間をかけたやら。「Quarrtett!」(Littlewitch)と比較すれば漫画的でも映像的でもないのは一発でわかる。多分、舞台的という言葉が一番近いのは荒川のひとだけど、でもそれ以上にやはりゲームシナリオの文法だと感じます。エピソードごとの時間経過や場所移動は常に「・・・」だけというのも実にそんなかんじで。個人的に思い出すのはサターン版レイアースなど。まあ、RPGでもAVGでも、登場人物の掛け合い漫才、コメディパートはこんな感じです。そのように過去の(PCエンジンやサターンの頃の)ゲームのシナリオを継承しているのなら、シナリオの内にゲーム的な要素を取り込まないのはむしろ納得のいく話。それらはゲームの合間の幕間劇として発展していったものだから、顔ウィンドウが画面上、つまるところ奥行きのない表層で動き回るほうが自然だし、会話もまたテッテして表層のみで展開し続けるのが正しい。背景は奥行きのある立体三次元空間などではない。立ち絵が無造作に背景の前に立ち、あげくに立ち絵で位置関係を演出したり(「君が望む永遠」)あるいは立ち絵が芝居をはじめたり(「Fate/staynight」)するようなことにはならない。絵で芝居をするときはミニウィンドウが用意される。これまた表層的。
荒川のひとの登場人物はゲームの奥に踏み込まない。閉じた世界に立ち入らない。彼らは境界の存在であり続けるわけで、要するに物語的ということです。