つよきす

祈先生とラブラブエンド。
かなり好み。アクセルとブレーキの使い分けが良いというか、全体を戦略的に構成してることが見て取れる。
誰ともくっつかないエンド。
このへんは基本に忠実だけど、捻りが足りないとも言える。お題との兼ね合いの意味も含めて、現状肯定の意味をもうちょっと突っ込んでくれても良かった気がする。

神林長平『猶予の月』早川JA

直球ど真ん中でSFだった。
姉と妹は全然違うものだと思い知らされる。つか姉すげえ。
「神は死んだ」じゃないところがこう、凄えと。神でも悪魔でも他人でも母でも妹でもありえなくて、姉である。「月はいつもそこにある」ですらない。
これは、エロゲーだと出来ない。エロゲーは、キャラクターより先にセックスが来てしまうから。「姉、ちゃんとしようよっ!」見れば姉であることはプレイヤーの選択の不可能な事態になってる。まず姉に食われるところからしか、話が始まらない。妹とはまるで違う。
エロ無しの一人称ギャルゲーやノベルゲーなら出来るか? …出来ない。SFは作れない。そもそもプレイヤーに選択肢を与える点で「僕の彼女を愛する気持ちは彼女に操作された結果かもしれない」とかそーゆー悩みは扱えない。扱っても根源的なところまで潜りこめない。あるいは、ちょっと異なる意味でその路線をやってしまってるのは麻枝准やその郎党だけれども、『AIR』の自爆テロがその帰結となってるように、自閉してる。
 
姉はさておき、ノベルゲームとの関連だと、『ONE』や『Kanon』も基本同じだけど、やっぱ思い浮かべるのは『水月』。つーか、タイトルの意味付け的にも。
機械の代わりに取り扱い事象の拡大のきっかけとして与えられるのが伝奇的要素ってとこがジャンルの差ですかね。あと、ノベルゲーだと上位の視点や理論は与えられないで、いわばカミス人の視点がないルシファの立場で(「まばゆい空に落ちていく/猶予の月」を読まずに)参加することになる。
あと、『猶予の月』では収束が結末として用意されるけど、『水月』では収束は拡散する結末のひとつ、てとこが違いかしら。そして拡散する結末も循環によって収束のひとつとなるので、収束と拡散が拮抗する形のままで受け手に委ねられる。アシリスとルシファの事象がどちらか片方に回収されず拮抗してる感じ、でしょうか。『猶予の月』ではループは軽く言及されるに留まる。これは完全にSF小説とノベルゲームの形式の差、かな。
とりあえず、さわりとしてはそんな感じ。

どうしてディックや神林長平やツツイの類を

読んで語る小説読みの人たちがエロゲーシナリオを語りだすと超保守なことを言い出すんだろう。「ひぐらしのなく頃に」のミステリじゃない批判にしてもそう。アンチミステリて呼ばれる小説て、帯や紹介文でアンチミステリって紹介されてないと受け入れられないのだろうか。ましてや、「ひぐらし」ではHPでも煽りでも推理小説であるともミステリであるとも一言も言ってないのに。
…てなことをつらつら思ってたんだけど。
なんとなく思ったのは、神林長平あたりを先に読んでバーチャルリアリティーとはこういうもんだ、的な先入観念を抱いてしまって、そこからノベルゲームを「読解」してるのかな、と。
例えば「猶予の月」の結末を、事象の選択や何やかやの取り扱いの規範や理念として考えてしまって、それをゲームのシナリオに適用したいとか。
いや、以前にSFマガジンで「僕たちのリアル・フィクション」だっけ、の記事でゲームを紹介してるときに、セレクトへの不満として

んでも、アリスソフトの適当な一本と互換できちゃう程度なのは変わらず>腐り姫
気にしだすとノベルゲーと断ってるくせにガンパレが入ってるのも違和感あるし。
21世紀になっても世紀末気分だったらいいんかと。
シナリオ内でメタフィクションに言及してればいいんかと。
いかん、どんどんやさぐれていく。

センスオブワンダーだけで突っ走るならいっそシスタープリンセスを推薦してはいかがか。

とか書いたんだけど、イマイチ反応なかったし。
『猶予の月』がアリならシスプリだって普通にオッケーじゃん。12人妹がいて全員お兄ちゃんのことが大好きで、血縁と非血縁が選べて。
究極超人あ〜る」に星雲賞を取らせるよりか、ずっとまっとうにセンスオブワンダーに溢れてるって。