ヤマンバとゴスロリ

 efではヒロインの造型が崩れない。手持ち無沙汰に画面白黒にしたり空を大写しにしたり人物画をくり抜いて空を映しこんだりする際、萌えキャラ造型の人物と写実志向の写真トレス背景画像の二項対立図式が割と考えナシで採用される。11話演出担当はキャラを崩したり背景画像を歪ませたりと意図的に崩してるが監督自身はフィギュアで人形アニメを作ってるかのようでOP見てると「お人形遊び」というフレーズしか思い浮かばない。で、こうした演出での人物の輪郭の不変性はもちろん「動かないアニメ」の伝統で、CG加工背景の普及以前の「動かないアニメ」で画面演出に使われてた「人物への影の書き込み」と「オーラやビームのようなカラフルな光の人体からの放出」の変形にあたる。

 人の輪郭を動かせない代わりに人体から放出されるオーラ光で画面を埋める。そうしたオーラ光が人の輪郭の内側に描かれると影の書き込みになる。オーラ光を「雲の流れていく青空」に当てはめてみれば、efでの人の輪郭の内側や輪郭線そのものに「雲の流れる青空」が埋め込まれてるのは、セルアニメで書き込みしてた頃の人体の「影」と同じだと判る。

 但しオーラ光はキャラクターの自己主張だが「青空背景」はキャラの主張じゃなく、むしろ人の側を外界から(画面から)切り離そうとする。

 んでゴスロリゴスロリの黒フリルは棘だが、バラの棘は葉の変形でフリルも白・ピンクの頃は棘ではなく柔らかいもの、ぶっちゃけるとオーラだった。外へ向け開放される感覚器で、空気へ全体へと溶け込んでく自我の放出だ。それが外界と衝突しオーラが固化すると黒フリルになる。なぜ黒かといえば外と境を生じたからで、黒色は内面の反映でなく外気の反射だ。黒フリルの内側には異なる色合いが残され内と外の二項対立が生じてる。同じことが例の懐かしヤマンバメイクにも言える。黒く塗るのが服か顔かの差で、ゴス服=黒フリル=オーラはアニメで言えば「手からビーム」だったりする奴だが、ヤマンバメイクは顔の半分以上が影で黒く塗られてたリアル系アニメの人物だ。

 黒く塗ることで外への主張と内面の確保が行われる一方、青空で塗り潰された人は主張も内向もない。器ですらなくヒトガタの窓だと言ったほうが正しい。人の輪郭の窓、窓でしかないヒト。雑に言えば作家の道具でしかない人形だが、もし作家の存在を認めず窓のヒトガタに拘るならそれは何なのか。