遠さ

ほしのこえ」のはなし。

 物理的な遠さが互いの断絶を意味するというのは、一方で動くものと動かないものを区別しないという考え方です。動かないことへの志向というのは動くということを忘れるということですので。たとえば、生と死、動物と植物などを動くことと動かないことで区別するという発想は、物理的な距離をテーマにする新海アニメにはありません。つまり新海アニメは「アニメーション」じゃなくて「ジャパニメーション」になります、となる。「ほしのこえ」のころはエスエフちっくな道具立てを援用してたのがそのうち東京と栃木とか二人の距離が具体的物理的な遠さに寄せられてくというのは、動いて何ぼのアニメーションからどんどん遠ざかってくことです。

 ランチカレーバイキング900円の店でインドあたりの映画を垂れ流してるのをぼおっと眺めていると、主人公の内面とか人格とか主体とかゆー決まりごとに無駄なコトバを費やしてるのがどーでもよくなります。噂話につたえきく現代社会不適合者よろしくガンダーラ歌いながらインドに下痢しにいくのもいいかもしれません。いまさら行って何が残ってるわけでもないでしょうが。

 たぶん、、憑物神みたいに万物に霊魂が宿りますアニミズムみたいなのと遠いとこからの旅人様は神様ですみたいのはワンセットのはずです。背景美術をゴリゴリ書き込んでったからそーゆーのが見えたのかもしれませんが。もちろん、こうなると三次元や四次元みたいな時間や空間という考え方はしませんから、秒速5センチメートルという時間と空間の単位が組み込まれてる動くことを説明するコトバは割と絶望的に理解不能なコトバです。

 で、「ほしのこえ」では女の子がロボに乗ってますが、語源やら定義やらにこだわる人はロボットに人が乗っているということは本当のロボットじゃないなどと言いますが、逆に言えば人が乗っててもロボでいーじゃんてのは、自律的に動くことを重視しないということで、人が乗るの前提の巨大ロボアニメはわりかし動くことを大事にしないでも大丈夫ということです。