笠井潔? ああ、可哀想な人だよ

 と、言われる。

 いや、僕が「笠井潔ってどういう人なの」と質問したからだが。発言者は、たぶん、一般的読書人と呼んでいい人。で、私の聞いた感じでは、彼からすれば「全共闘時代で思考が止まってる人」で、SFも推理小説も浸透し拡散しててジャンルとしてもう成り立ってないのに、無理やりしがみつく人、という感じらしい。

 いや。『探偵小説と記号的人物』というのを読んで、頭を抱えてしまい質問し、質問の回答として、上記は個人的に納得がいった。

 データベースて言葉は、繋がらないところに繋がりを見出す、何にでも使えるマジックワードで。自分もつい使ってしまって、この本を読んで慌てて削除した文章を再送したぐらいに。間に合うといいなあ。

 さておき、そういう言葉でもって無理やり清涼院流水を再評価、てのは、ジャンルは崩壊しました、と宣言しているに等しいと思った。あらゆるジャンルが崩壊する時代なのだ、などと言ってしまえば簡単だが。東センセも思ってるように「データベース的である時代」に作品評なんて書くだけ野暮というか、読む人の手間を考えると、むしろ邪魔というか。本を読んで解釈し理解することを誰も求めないわけだろう? 必要なのはとにかく知らなくても済むための一言代替用語であって。んで、「データベースで、動物で」ていう言葉は、その「知らなくても済むための用語」として実に最適であることで、自己証明されてるから完璧なんで。そのへんは、言いだしっぺの本人も認めてるわけでしょう?

 そこに抗うのに非物語とか言い出すのって、なんだかなーと。

 んで、その後。

http://homepage2.nifty.com/aleksey/LIBRA/kasai_higasi.html

 を、読んで。なるほど、むしろ開き直ったのか、と思った。

 ただ、一番上の読書人氏は「動ポモ」にそれなりに納得したらしいのだが、それは僕も非常に共感するところなのだが、それで「動ポモ」がオッケーなら、未だに「全共闘時代の感覚」でモノを語り、推理小説論壇にしがみつくのも、普通にアリじゃないかなぁ、と思う。だって、先に進みようがない議論だし。