続き6

この言葉と共同体の関係は、冒頭で引用した「あざとさ」と入れ子構造的に連続しているように見受けられます。都築真紀のシナリオは、受け手を共犯関係に巻き込みながら展開していく。受け手は当然それぞれの価値観でその共犯関係を受け入れたり拒絶したりするわけですが、受け手が「ここまでならOK」という程度に受け取っても、シナリオはその先の領域までどんどん進んでいき、受け手の倫理的価値判断の許容範囲外を突きつけてくる。それを拒絶した場合は「では、あなたはなぜ途中までは了解したのか?」と私たちの価値観の曖昧さを逆に衝いてくることになります。この手法は、最初から厳格な価値判断で全てを拒絶してくる相手には全く通用しませんが、受け手との共犯関係を前提とするジャンル物への批評効果は非常に高いと思われます。ジャンル物をジャンル物として享受する層の、おそらく多くが自己の価値観の守備に入ってしまうでしょう。つまり、受け手それぞれの価値観を浮き彫りにするのです。

わんことくらそう」においては、エロゲーという性描写があるメディア・性欲処理の道具の作為性を足がかりにして、人間と人間以外との境目を、言葉によって乗り越えていく営為が示されます。受け手は、突き進むにせよ引き返すにせよ、どこかで自分自身の価値観・倫理観と向き合うことを要求されることになります。これはSFであると評したり癒しゲーであると判断したり、受け取り方は様々でしょうが。そうして洗い出された自分の価値観とどう向き合うかは個々の問題となります。

ですが一方で、「わんことくらそう」は一つの問題を提起します。
言葉は果たして、共同体内部に向けてだけのものでしょうか。言葉を交わす相手は決められた相手だけでしょうか。

というところで、続く。

2006年11月27日23:25 くっちー

ねーねー、「まんが日本むかし話」ってセカイ系セカイ系なのー?

2006年11月28日22:52 みゃーこ

ガンダムセカイ系でメタリアルフィクションです間違いなく。