あ、チクられてる

>「倫理的に問題のあるフィクション」などというものはありうるか。
ttp://kaoriha.org/nikki/archives/000383.html

じゃあ、もうちっと言うと、論理を導入する言葉、評論や批評、議論の俎上に載せることが事実上不可能なのが、「倫理的に正しくない」話です。倫理は論理の基盤であり、論理の帰結は倫理であり、というのも倫理的な物言いですが、まあ、そういうことです。
ですので、ロジック以前の言葉で、例えば簡潔に「好き」「面白い」に代表されるような、いかにも直観的な評であるほどに、それに対して「倫理的に…」という言葉は意味を失います。
「そんなのボーダーラインなんて存在しないじゃないか」というのもその通り。極言してけば、グレーゾーンはいくらでも広がっていきます。
『C†C』について言えば、「空白の中心」を軸に全体が展開していく話で、それも「ムラ社会の存続の名において正しい」と言えるはずです。そこでずっと足踏みし続けることを誰も否定できないし、そこにヨーロッパ流の進歩・進化を賛美する思想を押し付けるべきではない、となる。もちろん、ムラ社会の立場で進歩思想を「表面的に」賛美してみせる態度を「論理的ではない」と反駁するのも意味がありません。相互に立場を捩れさせながら成立しないズレ続ける議論を繰り返す、そのような状況を肯定できるのであれば、もしくはそのような状況に身を置いてなお言葉を語りつむぐヒーローを待望するなら、『C†C』はその要求を満たしています。

ttp://blog.goo.ne.jp/kamimagi/e/afda62669c726e9ccc135cb84042d0f4

で僕が目指したのはそのような、相互が噛み合わない捩れた状況を再現しそれを肯定してみせることで、『C†C』を評価することでした。
もちろん、上記の詭弁めいたロジックもまたロジックでしかないですから、直観的に、感情的に否定することが可能です。
このようにして、捩れは、当事者が望む限り無限に広がっていく。

作品を評価するために他人の感情を害していいのか、という問いは倫理的なものです。僕は、受け手を含めての作品であるとの立場から、その価値観まで巻き込むつもりでやりました。人間より作品を取った、と書くと偉そうですが、まあ、倫理的には僕のほうを屑と呼んでしかるべきだと思います。