二択と三択

選ぶ側にとって、選択肢が多いのと少ないのとどっちが気楽ですか。

僕は4択、5択、6択、多いほうが気楽です。どこかの段階で思考停止に陥る。自分の計算可能な範囲でのベターを判断することにのみ視野を限定し、そこから外れるものについて考えなくなる。

詳しく見ていくなら、多数の中からの選別には自分のなかで階層化された2択の積み重ねが働いてるのでしょう。そして序盤、最初のほうに切り捨てた2択のうちの一方は、もはや記憶に残っていない。とっくの昔に経験化され機械的に切り捨てている場合がほとんどです。条件反射。

以上のことを逆に言うと、二択という形式は、経験化され過去化されていく私達の行動を、現在、というか、現前してるものとして捉えなおす接点なわけです。今そのとき、という感覚を獲得するためのもの。
モニターの先の虚構であるゲームの、「今そのとき」を今そのときとして感じ、一体感を得る。
それがリアルタイムということでありますし、「私個人の時間」が「モニターの中の時間」にまで延長されるということで、「モニターの中の公共の時間が各家庭のお茶の間に浸透していく」とよくいわれるTV番組の時間の公共性あたりと対峙させられてきたわけです。実際にはゲームだって同じタイトルをやれば経験の共有がなされるのですが、僕らの世代の受けてきたRPG系統に対するイメージ教育・宣伝においては「あなただけのオリジナルな体験・ストーリー」が強調されてきています。で、この宣伝文をどう受け取るかが、コンピューターゲームをどう捉えているかの分水嶺です。実際に他人と競い合ってアイデンティティを獲得するのと、そのアイデンティティ獲得という状態を対象化して捉えるのと、二つの差。

さて、二択と三択の差について、二人のうち誰か一人だけしか助けられないのと、三人のうち誰か一人しか助けられないのの差、と考えます。
二択であれば、私の選択という行為は一人を見殺しにしています。
三択であれば、私の選択という行為は二人を見殺しにしています。
三択のほうが、私の罪の意識は、私の選択という行為を重く受け取ることになるのでしょうか。
おそらく、選択の瞬間についていえば、二択のほうが現前する今そのときが差し迫って重く感じることでしょう。少なくともゲームにおいては選択の幅が増えるほどリアリティを感じ取れなくなるはずです。