リアルタイム性とディスプレイ万能主義

えーと、上のDiGRAの例会には行ってきていて、岩谷徹氏が「現在の特許取得の方向性はリアルタイム性の追求によるものが多い」てのと「ディスプレイ万能主義」てのと、二つほど近いタイミングで発言していたので、連続してる話だと思って質問した。念頭にあったのは、以下の二つ。

  • dotimpact 田中孝太郎[リアル・タイム・マシーン]展

http://realtimemachine.dotimpac.to/

■「リアルタイム」とはコンピュータが生み出した言葉と言っていいでしょう。すべてがあるがままの現実世界と私たちとの間にコンピュータが介在するとき、そこでなにかが起きるタイミングが「リアル」であるかが問われはじめます。コンピュータとネットワークに日常的に触れることになった私たちは、この「リアルタイム」の感覚に、すでに現実以上のリアリティを感じているのではないでしょうか。現実にはモニターが画面を描き換える1/60秒の瞬間には光は5000kmしか進めず、コンピュータの処理速度やネットワークの速度がどれだけ上がったとしてもそこには必ず遅延が存在します。しかし、すでに「リアルタイム」の世界に生きている私たちにとって、その「現実」の遅延は、むしろ現実感を後退させるものになるでしょう。まるで、ふいに時間を飛び越えてしまったかのような。

http://storybook.jp/note/?d=2006-07&m=month#/note/note060703.htm

いわば観念的な平面の芸術について,僕らはいつまで付き合うことになるのか,あるいは付き合うことができるのか.ここはうまく根拠を示すことができないのですが,アーケードゲームにおいても学術的にはヒューマン・コンピューター・インタラクション(HCI)分野で発表されてきたような考え方が数歩遅れで導入されて,ガンシューティングにおける身体のセンシングや,カードやタッチパネルを用いたゲームの操作法などが,研究云々を引き合いに出すのがあほらしいほど当たり前になってきて,そうするとHCI研究者がこぞってバーチャルを捨てて実世界とヴァーチャルの境界面へ駆け出してる(ように僕には見える)昨今,これからはゲームにも相当,センシングとアクチュエーターに代表される実世界的インタラクションの要素が入ってゆくのではないかなぁ,と思いました.

等々。
えーと、岩谷氏からは、リアルタイム性を巡る特許は、主に描画の速度アップ(もしくは処理量を減らしてもリアルに見える描画方法の開発)です、という回答をいただきました。
 
で、時間の扱いとストーリーの表現技法の話と言えば、例によって例のごとくになってしまうけれども、アシュタサポテの『ジョジョの奇妙な冒険』の話にリンク。
http://astazapote.com/archives/200009.html

主人公たちが敵を倒す際には最低一度は形勢の逆転が起こるのが常であり、かつそれは多くの場合、数ページ前で既に描かれた行為が実は別の意味を持っていた、または描かれていなかった行為が実は行なわれていたという、作品に対する遡行的な解釈によってなされている。
(略)
いや寧ろ、差し当たって読者を「今」惹き付けることを何よりも優先させる週刊連載作家として、荒木は「読み返されたくない」し「読み返す必要のない」作品を描いていると言うべきなのかも知れない。物語時間は「再解釈」によって幾度となく中断し逆行しながら、作品的な時間の流れは決して断ち切らないというやり方。
(略)
エヴァの報告シークエンスの話に戻って一つの単純な点を確認しておきたい。
 すなわち、その報告が多くの場合残り時間に関するものであり、しかもそれが極めて正確になされていたというごく自然に看取される事実がそれで、例えば伊吹マヤが「初号機、活動限界まであと30秒」と言えば30秒後には本当に初号機は停止するし、青葉シゲルが「カスパー、18秒後に使徒に乗っ取られます!」と叫べば18秒後には本当にカスパーが乗っ取られる
(略)
使徒と呼ばれる敵が確かに物理的な脅威ではあるのだが襲ってくる理由も正体も明かされていないため観念的な対応しかできないものと設定されており、実際シンジも含めて第3新東京市の人々が使徒に対して具体的な恐怖や不安を感じることが出来ていない以上、そこで緊迫感を演出しようとしたら後はもうカウントダウンという強制的な手段にでも頼るしかなかった
(略)
エヴァにおけるこの「残り時間」に対応するのは、恐らくスタンドの「射程距離」という概念である。
(略)
「一人一体」「スタンド使いにしか見えない」等の規則は捨て去られても、「射程距離」の規則を無視するスタンドだけは決して現れないのだ。

全文引用したいがキリがない。