「上手ミス」は萌えをわかってない

えーあと、昔書いた文章。

まず、「エロゲはヌければいい」というのは絶対嘘。僕らはそんなんじゃ満足できない。大体、世の中の人間は早い人も遅い人もいるのだ。早い人だけに合わせていたら遅い人は満足できないし、遅い人に合わせたら早い人から「こっちはもう満足なのに画面の向こうではまだ盛り上がってる」と言われてしまうではないか。自らを振り返ってみてくれ。○精は本当に目的か? 単に、どうしても避けられぬ余計な付随物じゃないのか?
みんな、精通前のことを思い出してみよう。そして精通後の感覚を反芻してみよう。はじめてのとき、それは何か物足りなくはなかったか? もっと長引く深い興奮と倦怠感とがない交ぜになったエクスタシーを、かつて感じたことはないか? 射○は本当に快感か? それはただの天井ではないのか?
ショタ漫画、ありゃ嘘だ。あんなのはエロコミ系譜のやおいの延長線にすぎない。
精通前のちっちゃな男の子は、女の子みたいに感じるにきまってるのだ。射○シーンなんてホモ系やおいを引き摺ってる半端なものはいらん。

なのでまあ、「上手なミステリの書き方教えます」の例のシーンは、わりと共感できるんですけど。
でも、これは非常に近いけれども「萌え」ではないです。
「萌える」は「愛する」ではない、お前は愛することなどできない、ていう指摘、イかずに「絶頂直前じらし続け責め」で宇宙までイク、ていうあたり、内田樹の「萌えオタクはSFファンジンのなれの果て」発言と組み合わせてみても、実態に非常に鋭く迫っているとは思います。
ですが、萌えの社会性の側面や、一線を超えた空虚さの自覚と断崖絶壁の縁にしがみつきながらの上下の方向感覚を見失ったままの上昇志向の、言うなれば「向こう側の住人」、ヤクザ映画のヤクザのノリに近い感覚でこっち方面に大金を注ぎ込む生活スタイルは、その先にある。僕らは、言うなれば既に犯罪者の自覚で生きている。