フィクションと偽造の違いは何処にあるのでしょう、とか。

言葉遊びの続きとして。
例えば、遊びのつもりで作った架空の学園の架空の生徒証(「蓬莱学園の冒険!!」に付属してたやつとか)を使用して学割料金で映画を見れたとしたら、それはフィクションの創作行為でしょうか偽造でしょうか。
本来ならば、それを作る者、実際に使用する者の意思の在り処による、となるのでしょうけれど、上記の例ではありえませんが、「偽物とは知らずに使用した」「冗談のつもりが相手に通用しなかった」など曖昧な条件はいくらでも考えられますし。
上記のような話の側から以下の質問に回答すると、

「何故見知らぬヒトより見知った架空のキャラクターの死に共感できるのでしょう?」
http://d.hatena.ne.jp/crow_henmi/20050911#1126437178

「架空のキャラクターは、共感してもらうことしかできないように制度的に定められているから」
となります。「偽造」や「嘘」や「トンデモ」から切り離されないと、それはフィクションとは認めてもらえません。あるいは逆に、「フィクションは現実の一部である」とか「私達が触れられる現実もまたフィクションに過ぎない」と言ったときに、「偽造」や「嘘」や「トンデモ」や「勘違い」などが、「現実」から排除されてしまう。単なる綴り違いや読解ミスが架空の怪物や幻の都市を出現せしめるのと似ているかもしれません。ある種の厳密さを求める態度がフィクションを育むのだし、そうして真贋について注意を払う必要がない状況が成立することで、ブレーキを踏むことのないフィクションへの傾倒を生じさせる。
だから、というわけではないのだが、
 
僕は不正確さのミカタです。