『ひぐらしのなく頃に』07th Expansion

その4。
その1はid:tdaidouji:20050720#p1
その2はid:tdaidouji:20050723#p1
その3はid:tdaidouji:20050729#p1
 
えーと、そろそろ疲れてきたので手抜きしたい。具体的には封印解除。
さて、こないだもリンクして使わせてもらった記事を再度ネタにさせていただきます。記事書いた人からすると無意味に批判的に見えるかもしれんけど気にせず放置して欲しい。

id:judgement1999:20041003の記事、基本的には好きな文章なんですけど、

美少女ゲームとは彼らが永遠に楽しい学校生活を送るための、ひとつの装置なのです。

というのは微妙に正確さに欠けていて、おそらくはそこから、話が捩れていきます。
まず「学校のテストのように答えのある世界の法則」については、大半のコンピューターゲームで言えてしまう。ゲーメストを読んでSTGの攻略記事を模倣するのにしても、RPGを攻略本片手にクリアするにしても、というよりも人間相手ではなくゲームオーバーになっても何回もやり直しができる(1回のゲーム/試合をそのとき限りの一期一会の勝負として考えない)とみなす段階で、それは人工的に作られた均質な空間です。*1
さて、ギャルゲーおよびエロゲー周辺を見回してみれば、学校生活そのものを舞台にした作品で目立つのは「ときめきメモリアル」や「同級生」*2「卒業」などの、ノベル以前の作品群です。また、ここ数年で最も目立つ例としては「ガンパレードマーチ」が挙げられる。これらを見れば、学校、および学校を中心とした地方都市生活圏は、ゲームシステムの要請からゲームが展開される時間と空間を切り出す際に説得力のある閉鎖空間として採用されていることがわかります。例えば「ときめきメモリアル」と「みつめてナイト」を比較すると、学校生活という説明の説得力の強さがわかると思います。前者が授業科目を主な育成項目とし、高校3年間をゲームの区切りとしているのに対し、後者はパラメーター育成のために傭兵であるにも関わらず「学校」が用意され、さらには傭兵生活3年目の最後に突然、外国人退去命令が出たという理由により強制退去させられるのです。*3

そして、

「序盤は主人公とヒロインの掛け合いコメディー。後半は急激にシリアスタッチ」という作劇方法です。これがわりと普遍的に見られる形式なのは間違いない。ただ、作例を追って行けば分かるのですが、美少女ゲームの場合、これが極端です。文体まで変わって、大げさではなく事実として世界の有り様をガラリと変えてしまう。「日常から非日常へ」というクリシェをどこから見つけてきたのか美少女ゲームのユーザは頻繁に使うのですが、これは衒学趣味ではなく実感として求められた表現です。

について、この「日常」と「非日常」の「日常」の部分を学校生活が担当しているのですが、それについては以下のような議論があります。

原則的にギャルゲーは1日目・2日目・3日目……という具合に直線的な時間軸に沿って話が展開する。これはたぶん、例えば推理ものAVGが1日目の捜査・2日目の捜査……という流れに沿って進行したり、育成ゲーやSLGがターンごとに一定の行為を選択することで進んで行くといった、先行する諸ジャンルにおいてごく普通に行なわれていたシステムがそのまま持ち越されたものなのだが、この「日々の繰り返し」において多くのゲームは毎回毎回同じメッセージを表示してしまう(せいぜいランダムで数通りのバリエーションがある程度)ため、非常にだるい。ましてテクストを読む事をメインとして進行するギャルゲーでこれをやってしまうと致命的だ。
(中略)
To Heart』が単に趣味的な選択から「ほのぼのとした日常」を描き込んでいた訳では決してなく、同一メッセージの繰り返しや煩瑣で無用なコマンド総当たりを避けるためにビジュアルノベル様式におけるテクストの強度を上げて行った結果過剰なまでに「日常」が描き込まれてしまったという、物語論的なレベルには還元しえない原因がそもそもあったということなのだ。
http://web.archive.org/web/20021021203211/www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary7.html#000318c

ここで

KanonAIRにおける「日付」は、物語とは別に進行する“システム”なんである。
http://www.kaisoku.com/dotimpact/think_21.html

と合わせてみれば、「日常」とはゲームシステムが描く世界観そのものだと理解されます。つまり「学校を舞台にした日常」とは、RPGにおける戦闘の繰り返しを基盤として成立するファンタジー的世界観に代表される「ゲームの中の別世界」の延長線上のものです。
では「非日常」とは何を意味するのでしょうか。

ゲームを続けていてふと気が付くと、特定のキャラしか画面には出現しなくなっていて、それを当然と思っている(プレイヤーとしての)僕がいる。ふと気が付くと、先程までは1日づつ進んでいたカレンダーが一度に一週間ぐらい進んでいる。
http://flurry.hp.infoseek.co.jp/200308.html#03_2

ここで端的に示されているように、各ヒロインの個別シナリオに入ることで、日常=ゲームシステムは狂い始め、ゲーム内世界という均質な異世界が破壊されていくのです。非日常とは「物語」が自らの自律性に従って内部からゲームシステムを食い破り破壊していく過程に見出されるものです。ここで、物語の動因となるヒロインが設定的に個人の資質のうちに抱える問題系は、ゲームの向こうの外側にあるものでした。これについては『雫』の段階で既に

自ら狂気の扉を開きたいと願うまでに現実と日常を嫌悪する主人公と、その扉を既に開いてしまった瑠璃子さん
http://web.archive.org/web/20021021203211/www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary7.html

という予告がなされています。
ですので、

ひぐらしのなく頃に」がホラーとしての独創性を持ち得ているのは、そういう理由なのです。美少女ゲームに内在する抽象的な意味での「学校」を、本作は無残に壊していきます。
id:judgement1999:20041003

というのはあまり正確ではなく、「学校」の破壊は『Kanon』に代表されるノベル系の美少女ゲームが根源のレベルで抱え込んだテーマであると言えます。*4
このことは、ヒロインの居場所によっても証明されます。『Kanon』のメインヒロインと目される月宮あゆは主人公の通う学校の外部にいて、この種のゲームで定番の制服すら着用していません。そればかりか、『Kanon』においては5人のヒロインのうち2人は学校の外部の存在、1人は長期休学中、1人は「不良」的存在で、最後の1人の従姉妹の幼馴染だけがクラスメートとして登場しますが、彼女のシナリオはヒロインが以前から抱えている問題が顕在化するという手法ではなく、予測不能の突発事項が突如としてやってきてそれまでの「日常」の基盤を予告なく破壊するというものでした。

あまりに巨大になり歴史を経てしまって現実との往還の経路を見失いがちなコンピューターゲームにおいて、物語という突破口によりゲーム(バーチャル)と現実とを接続する、それがノベル系ギャルゲーの果たした役割でした。これにより多くの人が「お前が欲情してるのは絵だ、絵」という現実と直面し、まあ人によっては絵と結婚したり二次元の中に入り込む修行をしたりしてますが、とまれゲームというもう一つの現実と向き合う糸口を用意したのは確かです。

ギャルゲーを他のジャンルから際立たせる要素とは、「攻略対象となる女の子の数と同じ数だけのシナリオが同時に並行的に展開するというシステム」、この一点に尽きる。
(中略)
ギャルゲーという語で指し示しているのが、そこそこ良質の恋愛「SLG」に仕上がった『ときめきメモリアル』ではなく、東西南北どこから見ても「ギャルゲー」としか呼称しようのない『センチメンタルグラフティ』である事は明らかだろう。
http://web.archive.org/web/20011123160251/http://www.geocities.co.jp/Hollywood-Miyuki/8179/diary6.html#000216a

ここで『センチメンタルグラフィティ』のOPの暗黒太極拳を思い出していただければ、それが極めて示唆的で予告的であったことがわかります。以前にあのOPを「全国から十二人の戦う女の子が集まって互いの制服を奪い合う、て話にしか見えない」と評した男がいましたが、センチOPの最後、脱ぎ捨てられた制服が折り重なるカットは、制度/システムの象徴である制服を脱がして、裸の女の子を獲得してくださいという、エロゲー/ギャルゲーの反ゲーム性をこの上なく適切に表しているのです。

では、「ひぐらしのなく頃に」は、そうしたノベル系のエロゲーギャルゲーと対比した場合、どう位置づけられるのでしょうか。

まだ続きます。

*1:コンシューマーのゲームを棚に上げて美少女ゲームを特殊視する習慣というのは別にこの記事に限ったことではなくて、コアゲーマーを自認する人たちを中心にゲームについて何かを語るときの大多数のスタンダードな態度なのであまり気にする必要はないのだけれど。なお、ゲーム周辺についてオタクな人が語る際は大概が神聖視、タブー視により自動的にゲームのことを語らないように出来上がっていて、最近になってようやくゲームとゲームの外部との関わり合いを巡る話ができるようになっただけでも「ゲーム脳の恐怖」の登場は価値があると私は思っています。

*2:そういやコレも夏休み中のイベントを扱ってるて意味では学校生活そのものからはズレてると言えなくもない。

*3:みつめてナイト」はそのあたりの不自然さを様々な設定によりフォローしていますが、それはとりもなおさず「学校」という一言が持つ説得力の高さを逆照射していると言えます

*4:だからこそ、最も典型的な美少女ゲームであるはずの『Kanon』は偉いことを言いたい筋から避けられ、またゲームを神聖視するプレイヤー層により否定されるのですけど。