花咲くオトメのための嬉遊曲

注意:上記作品のみならず、「ひぐらしのなく頃に」の大幅ネタバレも混ざります。予定外のアクシデントってやつです
 
 
 
昔からノベルゲーといえば大半が一人称でありまして、そして一人称であることがあまりにも当り前になっているがゆえに面倒くさい混同・混乱がずっと続いてきたわけですけれども、その混同・混乱を上手く利用してきた作品は昔からありまして、サブカルな(あたしもすっかりサブカル野郎になっちまいましたが)つーかスノッブな人たちが好むのはそんな代物であるわけですが、ああ俺とうとうスノッブなんて単語を使っちまったよ猫の森には帰れないよモーサイテー。
 
本作には語りの視点移動がありまして、主人公、三人称、ヒロイン視点、第三者視点の四つの視点が使い分けられます。しかしそれは視点移動による誘導・混乱を狙ったものではなく、むしろ誰の一人称であるかを最初に示し、語り手を常に明確に表記しています。「ひぐらしのなく頃に」を再び引き合いに出しますと、「ひぐらし」の本編では与えられる情報が常に情報提供者・語り手のバイアスがかかっている(と思わせられる)のと対極であるといえます。
上記の形式はいかにもミステリらしく聞こえますけれども、「ひぐらし」がミステリーの類であるというのは大きな誤解であると私は思っています。ミステリはやおいと同じく人間の主体ではなく人間と人間のあいだの関係性を中心に据えているとこないだ書きましたが、これの特徴的なのは関係が一方通行である点でして、そのためにもっともらしい理屈がこねくりまわされたりもします。スタート地点とゴール地点が常に決まっていて流れる方向が決まっているから積分が成立するのですね。やおいの攻めと受けの順番が重要なのも同じ理屈によります。攻め受けが逆転すると求めるべき面積部分が、文字通り世界が反転してしまいます。やおいの関係において受け側は強姦されなければならない。つまり関係性を中心にしていると言っても、その内実は「萌え」と同じくベクトルの方向性が決まっているのには変わりはないわけです。時計は常に右回りに動いている。
ひぐらし」は時間が流れていることをあまり感じさせません。むしろ雛見沢という空間の構築に力が注がれていると言えます。つまりキャラクター=個人であることと、空間であることとの対立ですね。プレイヤーは目の前のヒロイン=キャラクターのみに注視していたものが、あるイベントを境にキャラクターではなく雛見沢という空間に意識が向かうように仕向けられます。また、「ひぐらし解」が「ひぐらし」における該当シナリオと完全に重なりはしないことも指摘しておかなければなりません。双方の語り手が出会うシーンが客観的に見て完全に食い違うのです。これは、「ひぐらし」が「見る/見られる」の単純な表裏一体の関係を採用していないことを示しています。「ひぐらし」をそのまま裏からなぞった「ひぐらし解」を提示しなかったということは、「解」は当然ながらそのままの意味での「解」ではないということですし、「犯人×被害者」の一方通行な関係に常に疑問符を提示し迂回しているということでもあります。
 
さて話を「嬉遊曲」に戻しますと、
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こちらでは内送理論と外送理論というトピックを引用していますが、つまり「見る/見られる」の関係は実は一方通行の関係ではないことが示されています。バットとボールが衝突するとき、ボールが主なのかバットが主なのかはどちらでもありうる、という、ただそれだけの話なのですけれども、さてようやく本編の視点移動の話に戻りますが、一人称であるときに視点/語り手を隠さないことの意味は、これは極めて消極的に聞こえるかもしれませんが、「相互に見ている」という関係を語りから排除するためになされているのです。ここにおいてあの一定年齢以上のおっさん共を狂喜乱舞させるためだけに強引に突っ込んだとしか思えないアニソンの歌詞の解説が作品と連続するわけですけれども、プレイヤーの視点を浮遊させず「見る」側だけに縛りつけることで「見ているし見られている」という相互監視のゲームを採用せず、「見る」という行為それ自体の双方向性をプレイヤーを巻き込む形で示したわけですが、さらに「ではなぜ最初から最後まで一人の視点だけに縛り付けなかったのか」といえば、定点観測により実質の視点位置がメインのヒロインの内部へと送り込まれることを慎重に避けたためです。プレイヤーは内面告白する語り手ではなく、内面が語られないキャラクターへと同化します。「なぜ泣いたか」の心情を説明する文章を経由して泣くのではなく、「泣いている」という描写に自分で心情説明をつけ加えるほうがずっと近道です。*1そのようにしてプレイヤー自身が見る主体、見る客体として接するように設計されているわけですが、それによって「作品内空間の否定」がなされます。上記の「ひぐらしのなく頃に」の逆ですね。ゲームという「場」を打ち消すわけです。小説やゲームで語られる風景を架空世界、現実世界と異なる別の空間として設定するのではなく、「見る」ことで双方向的に接続される、「世界」ではない地続きの出来事にキープする。女性のみの高校野球全国大会(これも実際にはないそうですが)という夢のみならず、無限に溢れ出す母乳とプレイヤーが一つの連続性によってつながったとき、物語はその圧倒的なセンスオブワンダーを見せてくれるのです。

*1:id:imaki:20050321#p1「他人から聞かされる理路整然とした話より、自分で思いついた適当な話のほうにリアリティを感じる(だって自分の頭で考えちゃったんだもの)」