声の位置づけ

立ち絵の変化は表情や動きを表しますが、近年のエロゲでは立ち絵の変化に「話者を示す」という役割が付与されているのが大きい気がする。
http://d.hatena.ne.jp/mp_f_pp/20110204/1296791431

 形式と意味の関係について先に述べておくと、必然性から形式が選択されるのと同程度には、形式が先行していて、その形式について後付け的に意味を持たせる例がある。
 現状のノベル形式のエロゲの場合、多くが背景画像の中に立ち絵を配置するという形式を外すに外せなくなっていて、そこに意味づけもたらされている気がするのだけれど、上リンク先の話もその例の一部ではないだろうか。

 ここのところ、コンシューマーでは、文章表示されるテキストと、そこに付随する音声とが、相互にズレている例が散見される。わざとアドリブ的に表示テキストと異なる発話をしてみせる演出といえばSS/PS期の『ネクストキング』あたりを思い出す。文章と音声を一致させる必要がないという話でいうと、エロゲでは『Forest』が気合の入りすぎた形で「声優の喋ってるのとテキストを意図的にズレさせ、意味づけを深めてく演出」などを大々的に試みていたが、ぶっちゃけ舞台劇的な演出にエロゲ声優の演技がついていけず声が苦しかったり、プレイヤーのクリック操作を待たないといけない制約が「ミュージカルめいた演出過剰さ」とかみ合わず、だいぶ損をしてしまっていた。そして現在、何よりテキストと発話の二種類の台詞を用意する労力に、エロゲという媒体は見合わなくなった。

 しかし今回取り上げるのは、それらとは異なり、「全台詞を喋らせてもどうせ聞いてくれないんだから、キャラクターの声質や特徴だけを付与する形で音声をテキスト台詞にあわせよう」という手法である。これ、データ容量の厳しい声優吹き替えゲー初期にあったが、そのリバイバルのような状況になっている。
 たとえば、アトラスの『ペルソナ4』では「でも、〜」という接続詞が冒頭にくる台詞の場合、「でも、」の部分だけ声優の音声が付随する。元々RPGなので、シナリオの多くの部分がフルボイスではなく無音声で進行するのだが、そこから更に推し進め発話の効率化がなされてる。実際、全台詞を喋られたところで、最後まで聞かないプレイヤーが多数派であることを考えると、そして逆に全くの無音では寂しさがなくもない贅沢さに慣れた我が身を振り返ってみると、この選択は合理的だ。
 この場合、何のために声優が必要とされるのか。当然、キャラクターの特徴づけのためだ。実際、P4のキャスティングは、音声によるキャラクターの肉付けがかなり上手くいった例だろう。天城雪子役は小清水亜美の当り役と言っても過言でない。

 その「声優による肉付け」の部分がより記号的に先鋭化していった例が『ダンガンロンパ』で、こちらはアドベンチャーパートでの登場人物の音声の殆どが、テキストと一致していないキャラクターの決め台詞ないし特徴づけの発話となっている。超高校級の占い師こと葉隠安比呂であれば、テキストでの様々な発言に付随して「俺の占いは三割当たる!」といった台詞が松風雅也の声でもって被さってくる。他の登場人物たちの台詞も同様で、あえて表示テキストと音声を一致させないことで、キャラクターの特徴づけと、さらにはPSPという容量の厳しいハード上の制限のクリア、さらには声優のギャラの節約や、おそらくはシナリオ演出とボイスデータを重ねていく作業量の削減も達成していると思われる。(つまり、幾つかの立ち絵ポーズや表情とセットにした音声を多くて10〜20種類ほど用意しておけばいいのだから、全台詞を朗読するフルボイスよりは安く済む。コンシューマーの多くは元々フルボイスじゃないけど)
 付け加えると、キャラクターの特徴を強く印象付けるという目的でいうなら、エロゲの、3人も4人もを並べるようなキャラクター配置自体に無理があると言わざるをえない。逆にPSPのワイド画面であっても、話者一人だけを画面中央に配置する形で演出上は困らないどころかむしろ有効であるのは、幾つかのオリジナルタイトルを見ればわりと明白だ(背景画像等のその他の画面素材が手抜きできなくなるけど)。証明は割愛するがゲームメーカーのオフィシャルサイトや動画サイト等で確認されたい。

 さて、『ダンガンロンパ』の場合、意図的にエセラノベ・ニセ西尾維新風味を狙っているため、キャラクターが極めて記号的であるように装われており、記号ぶりの際立ちが違和感にならないという作品の特徴がある。なので他のゲーム全てで同様の手法が通用するわけではないが、上リンク先のエロゲの立ち絵演出についての考え方を対比してみると、掴んでいるポイントは全く異なっていることに気づく。つまり、音声に対する眼差しである。

 エロゲのフルボイスについては、現状のところ「オタク文化圏にいるのでフルボイスというサービスはある程度必須」という意見があるだろう。これについては『ダンガンロンパ』でも「(議論パートについては)フルボイス!」という宣伝を使っており、オタク向けメディアとしての束縛事情にさほどの違いはない。
 しかし、エロゲの場合もうひとつ「女性の喘ぎ声およびそれに付随する女性の声質の質感そのものが、ダイレクトに性欲を喚起してくれるから」という理由がついてまわる。エロシーンで音声が要請されるから、それにつられる形でエロパート以外でもキャラクターの特徴づけの連続性として声優の声が要求される。実際、音というのは威力が強く、シナリオがへぼくても男の子はエロボイスで勃 起する。クソゲーであっても、エロゲーをわざわざ買う程度にもてあましている若い男子においては、エロシーンの喘ぎ声において性欲はそれなりに満たされてしまう。その際に音声に見出されているのは、音に包み込まれているがごとき状況であり、プレイヤー側の感覚としては指向性をもたず受動的であるような状態の延長であるといえる。
 一方、『ダンガンロンパ』の場合、声優の音声に求められているのは声優の声のもつ肉体性がそのまま記号として抽出されるような状況であり、声が凝固し外部化されている状況を示している。大山のぶ代が「うぷぷ…」「むかー」「どっきどっき」「オマエラ!」などと言うだけで、もう、コンテンツとしての『ダンガンロンパ』は圧倒的に勝利しており、他の全てはオマケである、そう思えてしまう。では、これが大山のぶ代の喘ぎ声を抜き目的に聞かせるエロゲだったとしたらどうか? 違う、そうじゃない、むしろ萎える、と思うだろう。同じ声優の声質を利用するのであっても、その使い方が180度異なっている。

立ち絵の位置づけ

 では、音声の位置づけに、それだけの相違があったとした場合、立ち絵の位置づけはどれだけ変わるのか。
ダンガンロンパ』の特徴的な「立ち絵」についていうなら、3D空間にパラッパラッパーのような2Dのペラペラ立ち絵を配置する。直接的にはニセ西尾維新を演出するため記号性を強調する手法である。しかし、「立ち絵」も記号的、「音声」も記号的、キャラクター設定も記号的であるからといって、シナリオの目指すところが記号性であるわけではない。シナリオはむしろベタすぎるというか、西尾維新の器用かつスタイリッシュな芸風からは程遠い、古臭い人情物の様式をまとっている。『めだかボックス』よりはこっちのほうがジャンプの誌面にはしっくりくる、といえば判りやすいだろうか。一部からすれば随分とつまらないとなるだろうし、大多数からすれば随分と受け入れやすい。

 では、何故そうした古臭さが違和感をかもし出さないのかといえば、「記号」がシナリオ内におけるキャラクター配置から見た場合、完全に外付けになっているためだ。簡単に言えば、「命は大切にね!」とか「弱いものいじめは良くない」とか「前向きに生きないとね」とか、万人が頷かざるをえないような無難な一般的なテーマが軸となってしまいさえすれば、キャラクターの外側がどれだけ記号的だろうと、そのキャラクターは「人間的」であることが保証されるのである。(どこぞの推理探偵物小説だのラノベだので流行してる擬似「萌え」の類の「記号性」は概してそういうふうに成り立っている。)
 逆にいえば、そうした「人間的であること」の保証さえあれば、あとはもう、キャラクターの外見がどんだけ記号的であることを装っていても構わない。そして、それをもう一歩推し進めるなら、キャラクターのパーツがバラけてしまっていても、つまり音声とテキストが一致せずキャラクターグラフィックが音声を繋ぎとめていなくても、それを同一画面内に押し込めてさえおけば、一人の人格の様々な側面とみなされる。「立ち絵」が律儀に台詞や音声と連動しなくても、あるいは黒画面で消え去っていても、まあ、どうにかなる。

 しかし、上リンク先のエロゲの現状報告について見た場合、そうなっていない。そこには極めて保守的な業界の態度が影響しているが、保守性を支えているのは音声が性的興奮を呼び起こすものとして広範囲に認められているためではないか。おそらく、エロゲの現状において、画面に登場するキャラクターたちは本質的にはキャラクターとして認められていない。大枠としてみれば作品の軸となるのが無難な一般的なテーマではなく、ヒロインの裸を見て勃 起することであり、ヒロインの喘ぎ声で勃 起することだからである。エロシーンが中心的でないようなエロゲーにおいても、エロシーンではとりあえず喘ぎ声テキストはしっかり確保されているだろう。そこから導き出されるフルボイスという様式は、いつかラブいエロシーンが(ファンディスクでもいいから)与えられる日のためにスタンバっている。その結果、エロゲーという枠組みの元、その根拠が性的であることを担保にし続けていられるからこそ、性的でないようなシーンにおいてキャラクターの諸要素が性的アピールを仕掛ける必要がない。

 そうした中において、「立ち絵」という様式は、現状、微妙に浮いてしまっている。勘違いされがちだが、もしも立ち絵に性的興奮を認めてしまったならば、もはやエロシーンは必要なくなってしまう。長森が頬を染めている立ち絵を見てしまえば、エロシーンイラネとなり、結果、流れとしてセックスを嫌悪するしかないのである。逆に、立ち絵だとセックスから無縁そうなほうが、いざエロシーンをかいま見たとき激しく興奮するのも周知の事実だ。(雪さんをみよ) にも関わらず、膨大なテキストデータの先へと飛ばされたエロシーンの手前において、立ち絵はそれ自体も性的であることを要請されるようになった。エロシーンのCGは(CG枚数が価格と連動するのが当然と言われながら)相対的に価値が下がったとされ、立ち絵の相対的価値がその分だけ上昇したと言われるようになった。もちろん、実際には「この立ち絵の女の子のエロシーンを拝みたい」という、エロシーンまでの案内の役割であって、それ自体が価値を生じているわけではないのだが、エロシーンを具体的に語ることへのタブー意識もあって、立ち絵は切り離されて語られるようになったのだろう。そして、エロシーンと切り離された「立ち絵」は、作品内で、その存在の根拠を見失った。

 およそ、立ち絵を巡る混乱は、そうした背景を視野に入れておかないと誤読するはめになる。背景画像と組み合わされた擬似3D空間に立脚しようとしたり、演劇空間を根拠に求めて凄まじい数の表情差分を要求するようになったりする、これらは、結果的に、エロゲのヒロインの魅力をどんどんと削ぎ落とす方向へと突き進んでいる(決めのポーズやとっておきの表情なんてそうそう何種類も描ける訳がないのに、それを何のメリハリもなく、とっておきのシーンのためのとっておきのCGに使える前に、差分表情で蕩尽してしまうとしたら、これほど悲しいことはない)が、何故かといえば、立ち絵は、それ自身がヒロインの根拠ではなく、本来であればむしろ何らの意思も動作も反映させるべきではないニュートラルなもの(人間的感情を反映させなくてもいいから、キャラクターの記号性を十二分に反映しえた)であったはずなのに、「立ち絵」という独自性を主張しなければならなくなったためである。

今回の例で言えば、音声との連動を立ち絵の根拠に求めているが、では、逆に言えば、音声との連動を結びつける前に、立ち絵は何らかの意味や関係を持ちえていただろうか。実は、そこには何もなかったのではないだろうか。