@oyomot: 少なくとも「まとめ管理人」という人においては、今回は取り上げた記事について、あまりきちんと読もうとしていない。「読まずに条件反射」で資料を読むの、大丈夫か、というのも
@oyomot: 日本史については、昔からよく「目の前に資料があるものだから、それを読んでれば研究できてしまい、歴史哲学などは見向きもされない」みたいな話を聞くのであるが、それを思い出したり
@oyomot: 「他人の意見を聞きたくはない」と同時に「正しい歴史の普及」を行うというのは、割と危険なコンボだなと思った次第である。そして、そういうスタイルを支持する人たちが一定数はいて、その中にはそこそこ過激な意見固守に走る人間も含まれる。
@oyomot: ただ、この場合、「他人の意見を考慮するというリベラルな態度は必要ない」という意思表明を、「まとめサイトの管理人」が明記したことになるわけであり、しかも、この人の場合、黙々とまとめるというよりは、日本史の話については積極的に「間違った意見の訂正」「自己解釈の説明」を行っていたりする
@oyomot: 顔文字付きの「知らんがな」というコメントについては、ほぼ「あーあー考えたくない聞きたくないメンドクサイ」という脊髄反射の自己防衛的なレスポンスだと思う。そういう自己防衛をしないとやっていけない、というのは、ソーシャルメディア上で何かを書き続ける上では割とメジャーな対応とは思う
@oyomot: 「異なる思考や意見を認めること」そのものを批判する。それに対し僕が意見を述べたところ、顔文字付きで返され、それにオマケで応援メンバーがくっつき、さらに僕のアカウントを「頭おかしい奴」と分類するという対応が発生したわけである。頭おかしい奴であるのは否定しないが
@oyomot: 記事中で、あえてリベラリズム的な態度を探すというと、「朝日新聞の記者として俺はこう考えて記事を書くが、それによりあなたの意見を否定はしない」という断り書きの部分だろう。ということは、「リベラル批判」は「相手の意見を尊重する」という部分への批判ということになる
@oyomot: この「まとめ管理人」は何に対して具体的に批判しているのかがハッキリしない。そのまま全般的な「リベラル批判」というフォーマットに短絡させているが、記事の主旨はリベラリズムに基づく話というよりは「徘徊」の、より詳しい内容へ一段階踏み込んで分析分類してみようという話でリベラル関係ない
@oyomot: 呼び方を変えている自治体もあるという事実の報告から始まって順繰りに説明をしており、一定の編集方針で情報を取捨選択している可能性は十分あるが(というか文章はそうして書くしかないが)、情報としては呼び方を変える以上のものではないし変えたから自己責任で歩かせるという話でもない
@oyomot: どちらかといえば、今まで「徘徊」と一律に分類して対処しようとしてきたが、そういう一律の分類で対応が追い付いているわけでもなく、本人たちもそうした分類に反発があり、呼び方の変更も対応の一つの方策、というふうに読める。というか僕はそう読んだ
@oyomot: 「まとめ管理人」というのは日本史の資料を抜書き翻訳した記事をまとめてるサイトの管理人なので「まとめ管理人」という名前だと思うのだが、この人の問題視しているのは「徘徊行動によって様々な問題が起こるがそれを放置していいのか」という話だが、放置するという話にはなっていない
@oyomot: 元記事をどれだけ見ても、自由にしていい、という話ではない。ただ呼び方と、その行動の内容についての考察や思考について、わりと長々と、そこそこ色々と書いている>「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き:朝日新聞デジタル URL
@oyomot: RT @oyomot: @1059kanri リベラルという話がどこから出てくる話なのかと思ったら、「私はこう考えるが他の人を批判は出来ないし考えるしかない」という最後の記者の表明ぐらいでしょうか。リベラルっぽいニュアンスといえば。
@oyomot: RT @oyomot: @1059kanri 事件事故の具体例も上げず煽るだけの内容がない批判ですね。一応は突っ込みはいれておきますが。中世日本云々の理解を求めたがる割に自分の嗜好以外の話を聞きたがらないのは何でですか