@oyomot: あ、新聞記者が具体的に「身体的な」暴力をふるったとか、そーゆーのは別な。それは新聞の影響力の有無とは関係なく、単に暴力問題だし、建物に無断侵入するなら、そら不法侵入である。「マスメディアの影響力」とは分けて考えれば済む。社会常識、公共道徳を守れ、でよかろ。
@oyomot: まあ、人間、新聞読んで社説かナンカで煽られて盛り上がっても、直後に誰かに「いやあ、そんなこたないだろう」とか言われるだけで「そっかなあ。まあそっか」ぐらいに鎮静化するもんですよ。だのに新聞の偏向報道が悪いとかゆってたって、しゃーない、程度の話にしとけと
@oyomot: ま、基本的には、書かない、てのを推奨する。読むだけ聞くだけ見るだけだと大した話にならん(つまり受動的なメディアである既存のTVや新聞の影響力ってのも最終的にはそんなに過大評価すべきとは思ってない)
@oyomot: 分岐してく文章では、当然ながら既存の一列に並ぶの前提の文法や技法じゃ成立しない、てのが、分岐ノベルの一番面白いところだったんだけど、小説を書きたい人たちが大量流入して小説組に占拠されたことでノベルゲームのそっち方面はアウトになったんだが、さておき
@oyomot: 大体、文章ってのは、こうやって一列で書くがゆえに一貫性をもとめざるをえなくって、その一貫性てのが良くも悪くも特徴なのだが、ちなみにこの「文章の一貫性」に逆らったのが分岐していくノベルゲームな。
@oyomot: 「書く」てのは、実際は、それほど自分の思ってた通りのことを書けるわけじゃなくて、直前に見かけたフレーズをそのままなぞっちゃうとか、些細なことで内容がブレまくるんだけど、一方で書くことで何となくすっきりと整理されて、それが自分の意見だと思い込むてのも普通にあることで
@oyomot: この「身体性」っての、今どきだと「ネットに書き込む」という「書く行為」こそが、もっとも身近な「身体性」じゃないかなと、俺は思うんだな。見てるだけだと距離を置いてるものが、書くことで距離が一気に詰まる。自分でも思ってなかったことを、自分で書いたことで信じ込んじゃう
@oyomot: 一方で、「身体性を伴うような娯楽はヤバいかも」と、著者の専門は軍歌で、要するに自分で声出して歌うという身体性てのは注意したほうがいい、と。なるほど、そういう意見もあるのかと思ったんだけど、
@oyomot: えーとね。「たのしいプロパガンダ」の著者がツイッタやってて、プロパガンダに近しくても、受動的な娯楽はそこまで大したことはない、例えばアニメや映画で旧日本軍を賛美するような内容であったとしても、それ見て多大な影響というふうにすぐになるわけじゃない、と。で、
@oyomot: 申し訳ないんだけども、この発言は一線を超えちゃってて、その先は「都合の悪いことは全部<サヨク>のせい」にしかならんし、それで何らかの発言を続けるべきではないと思う。エスカレートするだけだし URL
@oyomot: 民対民の構図で、ありもしない幻想を攻撃し続ける形にアイデンティティを作り上げちゃって、そこに当てはまる「敵」を探し回って「発見」する、というの、普通にジェノサイドな方面に直結してる差別思想なんだが、わかってるのかなあ
@oyomot: もっといや、実際に国家権力を行使する者に対しては常に監視の目を注ぐのは当たり前なので、まだ「自民党のやることに批判する野党」の構図はまだ体制として機能する仕組みの一環なのだが、存在するかもわからない実体のない「サヨク」を批判するの、そうした仕組み上の意味すら持ち合わせてないんだが
@oyomot: 「何が何でも軍事的なものを排除しないと気が済まない基地外左翼」をでっちあげて攻撃することでしかアイデンティティを保てない、というの、自分自身が「とにかく何でもいいから批判する」という姿になってることに気づきたくないのか