住み分けとか蛸壺とかそーゆーざれごと

http://d.hatena.ne.jp/marita/20051103
ふーん佐藤亜紀そんなの書いてるんだ、と思った。
僕個人のイメージする「断絶」てのは互いに独立した集団がひしめきあってるというよりは、同心円みたいなカンジだ。一つの幻想だか歴史だか作品だか単語だかを核にした集合の外側に、他の幻想だか…単語だかによって触発された薄い膜のような集合がある。その膜の外側にはさらに膜があり、そういう膜を超えた行き来がない、といったところ。断絶なるものがことさらに意識されるのはだから核となってるはずのものについて語るときだけ。
ここしばらくゲームて言葉の使い方、物語て言葉の使い方を眺めてたらそんなんでした、というだけですが。
伊藤剛の『テヅカ・イズ・デッド』は文中でゲームという言葉を使ってるけど、そこに使われるゲームという言葉は当然ながらゲーマーやゲーム研究の人の普通に言うゲームとは違う。違ってるのは仕方のないことなんだけれども、そのズレが多分、断絶そのもの。で、面白いのがそういう違いが二極分化で分裂するのではなくて、ちょうど射撃の的のように白と黒が交互に塗り分けられているような形で中心から広がっている点。白と黒の違いは概念と形式、軸と補助といったものね。内側から見ていくのと外側から見ていくのが、昔だったら出会うはずが今は出会わないという。中心核が虚なのか実なのかが曖昧であることを許されないからそうなるんですが、それが非常に細かく繰り返されて地層になってるのが面倒な話で。
例えばid:judgement1999:20051216における

「ナラティヴ」とは「物語」のことです。
id:judgement1999:20051216

の「物語」は「ゲーム」に置き換え可能だ。リンク先は美少女ゲームの「美少女」の部分をやや強調した立場なので「物語」となるが、まあそれはどうとでも好きにすればいい。互換可能であることを強調しとくのが僕の立場であるというだけのことなので。