ラブひなとネギま

赤松健でちょっと面白いなと思って読んでた時期を思い返してみるに、メインヒロインが発情して暴走してたラブひな末期から、そこそこエロイベントが多かったネギま序盤ぐらいになる。ネギま異世界に行った後も惰性でしばらく読んでいたがエロイベントはもう発生しなさそうだなあというあたりで切った。AIとまは最初の2,3話ぐらいで切ったので知らない。

つうわけで赤松健はエロの人である。

赤松健の印象というと、やたら漂白して特徴を消しに消した絵柄で、上記の時期はその特徴を意識的に消したような絵でもって、割と過剰にエロを投入することで上手く回ってたと思う。今どき炎上する「こういう皺や胸の書き込みをすると性的」みたいなののちょうど正反対の手法で気配を消しながらベロチューとかモロ出しとかラブコメというよりエロコメだろうという内容を少年誌の枠に投入してる頃がバランスが良かったんだと思う。で、その後は、なんか少年ネギが成長云々、という要素を投入してったあたりでなんかフックないなーってなった印象(当時のブロガーは少年が成長云々つってたが、まあギャルゲー要素に対する言い訳)。ところで噛みついてるらしい高遠るいは1,2冊読んだ感じちょうど赤松健のいかにも漂白してる絵と逆に体臭的なリアルを求めがちで、こっちはこっちでちょうど正反対ではある。

ラブひなの女子寮で主人公中心のドタバタについては全く覚えていない。ほぼラブひなリファインなゆらぎ荘のが、時代が近いせいもあるがまだしも印象が強い。

 

赤松健は基本的にはゼロから創作る人というよりはシステムハックする人の側だと思う。つってもクリエイターなんて9割かたゼロからシステム構築なんてしないわけで別に例外的というわけでもないが、それでもエロ以外の印象はないに等しいのが凄い。淡白な絵で過剰にエロ投入の手法はたぶん偶然そうなったんだとは思うが少年マンガでラブコメといえば淡い内容に自慰を促すワンシーンというのの逆を一時期とはいえ構築したのはシステムハックの見事な例で、あそこまでエロ気配を消した絵でエロをやるのは普通はしないわけで発明といってもいいと思う。このへんの勘所を理解しないから東大ズはいつまで経っても…まあいいや。

 

システムハックというと何となく頭いい感じがするが、赤松健については実際にはそんな頭いいわけではないと思う。というか、そもそもシステムを理解した上でハックしてるわけではなさそう。マンガ団体で政治活動するぞと最初に気炎をあげてたとき「マンガ家のクリエイター減税を目指す」とかSNSで書いてて、そんな一部の売れてる作家にだけ恩恵およぶ制度をスローガンにして、大半の売れてない食えてないクリエイターには何の得もない目標で利害団体を作ってどうすんだと思ったもんである。オタクの団体を作って上に立てるという目算だけあって何をやるかの中身なかったんだろうなとは想像つくものの、そのへん隠さないあたり周到じゃないよなあという感じ。自民党に流れるのも、まあ流れとしては自然だけどメリットあるの本人だけだろう。

考えればわかると思うんだが国内の各利権団体が自民党一党にみんなして詣でて全員がちょっとづつでも分け前ありつけたのは日本が経済成長していた時代だから成立してた話で、経済縮小して切り分けられるパイが縮んでる以上は分け前にありつけない割合がどんどん増えていく。今さら弱小団体を作ったところで他のより大きな利権団体の都合が優先され、陳情は強者が従前どおりのパイにありつけるかどうかの都合に左右され、順番はひたすら後回しにされるしかない。当初、コミケのエロ同人、二次創作で稼いで生活する人たちというグレーゾーンを発見し、グレーゾーンの庇護を求めてお上にすがりつく構図が作れる! と計算したとこまではいいとして、じゃあ実が得られるかといえば何もなく。というか、もうそろそろオタクないしマンガ団体は見切りどきという自民党側の判断があったからこそ赤松健としてはこのタイミングで自民党にすがりつくしかなかった、というふうに見える。

世の潮流として、マンガは、「手塚治虫が発明したマンガ」というのは終わりだろうなあとは思う。世界中から絵が上手い人たちがどんどんマンガに参入し、絵の上手いマンガとしてマンガは再構築されてくだろうし、そうなると「絵の下手な手塚治虫の発明した方法論」はいっそう後退してくしかない。マンガは絵として再解釈され(現時点ではそういう流れ)、絵の上手くないマンガとは区分化されてくんだろう。そうなったとき、マンガという枠組みを表現として擁護する理由も根拠もなくなる。今、マンガとしてある表現は絵として解釈し、絵として理解すればいいのであり、絵として(あるいは絵を一切落としたテキストのみとして)評価できないものを守るロジックはない。もとよりそういうものであったのだし。